・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・宮寺抔都て人の多く集る所へ四十歳より内は余り行べからず。 婦人が内を治めて家事に心を用い、織縫績緝怠る可らずとは至極の教訓にして、如何にも婦人に至当の務なり。西洋の婦人には動もすれば衣服裁縫の法を知らざる者多し。此点に於ては我輩・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・英文は元来自分には少しおかったるい方だから、余り大口を利く訳には行かぬが、兎に角原詩よりも訳の方が、趣味も詩想もよく分る、原文では十遍読んでも分らぬのが、訳の方では一度で種々の美所が分って来る、しかも其のイムプレッションを考えて見ると、如何・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・今日は余り大胆な事をいたすことになりましたので、わたくしは自分で自分に呆れています。さて、当り前なら手紙の初めには、相手の方を呼び掛けるのですが、わたくしにはあなたの事を、どう申上げてよろしいか分かりません。「オオビュルナン様」では余りよそ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・たりという一事はこれを証して余りあるべし。その敬神尊王の主義を現したる歌の中に高山彦九郎正之大御門そのかたむきて橋上に頂根突けむ真心たふとをりにふれてよみつづけける吹風の目にこそ見えぬ神々は此天地・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・母さまはその額が余り熱いといって心配なさいました。須利耶さまは写しかけの経文に、掌を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅革の帯を結んでやり表へ連れてお出になりました。駅のどの家ももう戸を閉めてしまって、一面の星の下に、棟々が黒・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 私は、恋愛生活と云うものを余り誇張してとり扱うのは嫌いです。恋愛がそれに価いしないと云うのではなく、正反対に、本当の恋愛は人間一生の間に一遍めぐり会えるか会えないかのものであり、その外観では移ろい易く見える経過に深い自然の意志のような・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 丁度近所の人の態度と同じで、木村という男は社交上にも余り敵を持ってはいない。やはり少し馬鹿にする気味で、好意を表していてくれる人と、冷澹に構わずに置いてくれる人とがあるばかりである。 それに文壇では折々退治られる。 木村はただ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・でお霜が出掛けてゆくことには、余り親子争いをしたくなかった彼は、外見、自分も母親同様の考えだと云うことを、ただ彼女だけに知らせるために黙っていた。が、安次を連れて行くことには反対した。けれども、自分のその気持を秋三に知らさない限り、自分の骨・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫