・・・はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興じて笑い声を洩らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生になり得たような気がして、実に清浄純粋な、いじらしい愉悦と矜持とを抱いて、余念もなしに碩学の講義を聴いたり、豊富な図書館に入った・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・丈夫づくりの薄禿の男ではあるが、その余念のない顔付はおだやかな波を額に湛えて、今は充分世故に長けた身のもはや何事にも軽々しくは動かされぬというようなありさまを見せている。 細君は焜炉を煽いだり、庖丁の音をさせたり、忙がしげに台所をゴトツ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・るに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標と磨いたる額の瓶のごとく輝るを気にしながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき小春が歳十六ばかり色ぽッてりと白・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色の小娘らしい袴に学校用の鞄で、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 丁度、お島は手拭で髪を包んで、入口の庭の日あたりの好いところで余念なく張物をしていた。彼女の友達がそこへ来た時は、「これがお島さんか」という顔付をして、暫く彼女を眺めたままで立っていた。 お島は急いで張物板を片附け、冠っていた手拭・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・新七、お力夫婦の外に、広瀬さんという人も加わって、四人で食器諸道具の相談に余念もなかった頃だ。この広瀬さんは一時は小竹の家に身を寄せていたこともあり、お力なぞもこの人に就いて料理というものに眼が開いたくらいだから、そういう人が心棒になっての・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ という声と共に私たちは立ち上り、思わず顔を見合せ、その時の、嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好は、いやもう、ほとんど神の如くでした。おそろしいものです。そうして、私たちは馬小屋へ駈けつけ、圭吾は署長にと・・・ 太宰治 「嘘」
・・・青扇は卓に両肘をついてコップを眼の高さまでささげ、噴きあがるビイルの泡をぼんやり眺めながら余念なさそうに言った。「ほかに行くところもないのですものねえ。」「ああ。お土産を持って来ましたよ。」「ありがとう。」 何か考えているらしく・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ できるだけ余念なさそうな口調で言って、前方の西郷隆盛の銅像をぼんやり眺めた。馬場は助かったようであった。いつもの不機嫌そうな表情を、円滑に、取り戻すことができたのである。「ところが、――僕には小説が書けないのだ。君は怪談を好むたち・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫