・・・彼が新言語を用うるに先だつ百四、五十年前に芭蕉一派の俳人は、彼が用いしよりも遥かに多き新言語を用いたり。彼の歌想は他の歌想に比して進歩したるところありとこそいうべけれ、これを俳句の進歩に比すれば未だその門墻をも覗い得ざるところにあり。俳人の・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
緒言 芭蕉新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出づるがごとく、檀林等流派を異・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・芭蕉の弟子に芭蕉のような人がなく、其角の弟子に其角のような人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆独り独りに違って居る。それが必然であるのみならず、その違って居る処が今日のわれわれから見ても面白いと思うのである。現にこの頃の『ホトトギ・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・芭蕉の弟子には婦人の俳人もあった。が女の生活は、たとえ彼女が俳句をつくろうとも、徳川時代の女に求められているすべての義務を果したうえで辛うじて風流の道のためにさかれなければならなかった。芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・評論家、ジャーナリスト、歌人、俳人で検挙された人たちも少くなかった。 執筆この年は文学評論集『文学の進路』、『私たちの生活』――婦人のための評論集――が出版された。一九四二年この年はまだ健康を回復せず眼も見・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・既にその時代、俳諧は大流行していて若殿自身蝉吟という俳号をもって、談林派の俳人季吟の弟子であった。宗房もその相手をし早くから俳諧にはふれていたとみられている。「犬と猿世の中良かれ酉の年」というような句を十四歳頃作ったという云いつたえもある。・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・栖方は俳人の高田の弟子で、まだ二十一歳になる帝大の学生であった。専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍へ研究生として引き抜かれて詰めているという。「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいので・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫