・・・おきみ婆さんは昔大阪の二等俳優の細君でしたが、芸者上りの妾のために二人も子のある堀江の家を追いだされて、今日まで二十五年の歳月、その二人の子の継子の身の上を思いつめながら野堂町の歯ブラシ職人の二階を借りて、一人さびしく暮してきたという女でし・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・平常は冗談口を喋らせると、話術の巧さや、当意即妙の名言や、駄洒落の巧さで、一座をさらって、聴き手に舌を巻かせてしまう映画俳優で、いざカメラの前に立つと、一言も満足に喋れないのが、いるが、ちょうどこれと同様である。しかし、平常は無口でも、いざ・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・否さまでならず、ただ去年のものにはすこしく優れりとうち消すようにいうは老婦なり。俳優のうちに久米五郎とて稀なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者姉妹に向かっていえば二人は顔赤らめ、老婦は大声に笑いぬ。源叔父は櫓こぎ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由ではあろうが、夫婦生活の真味が味わえない以上は人生において、得をしているか、失っているかわからない。色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」 すると、次郎はしぶしぶそれを食・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。 また、こんな話も聞いた。 どんなに永いこと散・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ 俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔はひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。 作家は、ロマンスを書くべきである。 太宰治 「一日の労苦」
・・・遊んだり、人のおもちゃになったりしていずに、少し稽古でもしたら、立派な俳優になった女かも知れない。どうかして舞台で旨い事をしたのを、劇評家が見て、あれは好く導いて発展させたら、立派なものになるだろうにと、惜んで遣ることもある。しかしその発展・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・人間の役者の扮した松王丸の中には、どうしても、その役者が隠れていて、しかも大いにのさばっているために、われわれは浄瑠璃の松王丸を見るかわりに俳優何某の松王丸しか見ることができないのであるが、この人形の松王丸となると、それが正真正銘の浄瑠璃の・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・たとえば歌舞伎座の正面二階から舞台を見るような場合、視像の深さはほとんどなくなっているはずであるが、われわれは俳優の運動によって心理的に舞台の空間を認識する。この錯覚を利用して映画の背景をごまかすグラスウォークと称する技術が存在するくらいで・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫