・・・黄昏に、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことを妙にひとなつこく搦んで来るような口調で言った。痩せていて背のきわめてひ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・三のときに、もう他界なされて、あとは、父と、私と妹と三人きりの家庭でございましたが、父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿った人口二万余りの或るお城下まちに、中学校長として赴任して来て、恰好の借家もなかったので、町はずれの、もうすぐ・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
一 古い伝統の床板を踏み抜いて、落ち込んだやっぱり中古の伝統長屋。今度の借家は少し安普請で、家具は仕入れ。ボールの机にブリキの時計、時計はいつでも三十度くらい傾いて、そして二十五時のところで止ってい・・・ 寺田寅彦 「二科狂想行進曲」
・・・そしてそこにも、まだ木香のするような借家などが、次ぎ次ぎにお茶屋か何かのような意気造りな門に、電燈を掲げていた。 私たちは白い河原のほとりへ出てきた。そこからは青い松原をすかして、二三分ごとに出てゆく電車が、美しい電燈に飾られて、間断な・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・二 妾宅は上り框の二畳を入れて僅か四間ほどしかない古びた借家であるが、拭込んだ表の格子戸と家内の障子と唐紙とは、今の職人の請負仕事を嫌い、先頃まだ吉原の焼けない時分、廃業する芸者家の古建具をそのまま買い取ったものである。二階・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・富坂の火避地には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残っていようはずはない。世の中は知ら・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・細君の答に「御申越の借家は二軒共不都合もなき様被存候えば私倫敦へ上り候迄双方共御明け置願度若し又それ迄に取極め候必要相生じ候節は御一存にて如何とも御取計らい被下度候とあった。カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をき・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・露子の銀のような笑い声と、婆さんの真鍮のような笑い声と、余の銅のような笑い声が調和して天下の春を七円五十銭の借家に集めたほど陽気である。いかに源兵衛村の狸でもこのくらい大きな声は出せまいと思うくらいである。 気のせいかその後露子は以前よ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・は、駒沢の奥のひっそりした分譲地の借家に暮していたころ、その分譲地のいくつかの小道をへだてたところにある一つの瀟洒たる家におこったことであった。「小村淡彩」「一太と母」「帆」「街」はどれも一九二五年から二六年ごろにかかれた。日本の文学に・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
出典:青空文庫