・・・見えようというのでと――どこか、壁張りの古い絵ほどに俤の見える、真昼で、ひっそりした町を指さされたあたりから、両側の家の、こう冷い湿ぽい裡から、暗い白粉だの、赤い油だのが、何となく匂って来ると――昔を偲ぶ、――いや、宿のなごりとは申す条、通・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・椿岳の伝統を破った飄逸な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽に漾う一種異様な蕭散の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居で、故人を偲ぶ旧観の片影をだも認められない。 寒月の名は西鶴の発見者・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・緑雨の手紙は大抵散逸したが、不思議にこの一本だけが残ってるから爰に掲げて緑雨を偲ぶたねとしよう。言文一致ニカギル、コウ思附イタ上ハ、基礎ヤ標準ヤニ頓着スルマデモアリマセヌ、タダヤタラニオハナシ体ヲ振廻シサエスレバ、ドコカラカ開化・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 二葉亭の古い日記から二節を引いて以て二葉亭の面影と性格とを偲ぶの料としよう。「この世を棄てんとおもひたる人にあらねばこの世の真の価値は知るべからず。」「気の欝したる時は外出せば少しは紛るる事もあるべしと思へどもわざと引・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如く食後の腹ごなしに翫ばれ、烏帽子直垂の如く虫干に昔しを偲ぶ種子となる外はない。津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・千日前のそんな事件をわざわざ取り上げて書いてみようとする物好きな作家は、今の所私のほかには無さそうだし、そんなものでも書いて置けば当時の千日前を偲ぶよすがにもなろうとは言うものの、近頃放送されている昔の流行歌も聴けば何か白々しくチグハグであ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 幸福者だよ、何も聞ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こういうおれの仕業だ。 ああ此様な筈ではなかっ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・なんの感激も無しに立って、「卓に向い、その時たまたま記憶に甦って来た曾遊のスコットランドの風景を偲ぶ詩を二三行書くともなく書きとどめ、新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると、『いやに胸騒ぎがするな』と呟きながら、小机の抽斗から拳銃を取り出・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・三田君を偲ぶために、何かよい御計画でもありましたならば、お知らせ下さい。」というような意味の事を書いて出したように記憶している。 二、三日して山岸さんから御返事が来た。山岸さんも、三田君のアッツ玉砕は、あの日の新聞ではじめて知った様子で・・・ 太宰治 「散華」
・・・ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲ぶ。風渡る梢もなければ馬の沓の地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」「左へ切ればここまで十哩じゃ」と老人が物知り顔にいう。「ランスロット・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫