・・・遁も隠れもしませんから、憚りながら、御萱堂とお見受け申します年配の御婦人は、私の前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背を抱く御介抱が願いたい。」 一室は悉く目を注いだ、が、淑女は崩折れもせず、柔な褄はずれの、彩あ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・父親は傷心のあまりそれから半年たたぬうちになくなった。 泣けもせずキョトンとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の肉のうすい女は総じて不運になりやすいものだといったその言葉を、登勢は素直にうなずいて、この時からもう自・・・ 織田作之助 「螢」
唐詩選の五言絶句の中に、人生足別離の一句があり、私の或る先輩はこれを「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きてい・・・ 太宰治 「「グッド・バイ」作者の言葉」
・・・荒海や佐渡に、と口ずさんだ芭蕉の傷心もわかるような気が致しましたが、あのじいさん案外ずるい人だから、宿で寝ころんで気楽に歌っていたのかも知れない。うっかり信じられません。夕日が沈みかけています。「君たちは朝日を見た事があるかね。朝日もや・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・あの画面に漲っていた傷心の感、自分が時に苦しむ或る気分が、不思議に柔かい黄色帽となって、椅子にとまった瘠男の頭にのっているような気がしました。〔一九二二年十二月〕 宮本百合子 「外来の音楽家に感謝したい」
・・・ 粤東盲妓という題の詩が幾篇もあって、なかに、亭々倩影照平湖 玉骨泳肌映繍繻斜倚竹欄頻問訊 月明曾上碧山無 魯迅の傷心の深さ、憤りの底は、云わばこういうところまでさぐり入って共感されなければならないものな・・・ 宮本百合子 「書簡箋」
・・・で、ベルクナアが示したような表面の技法で、内実は父権制のもとにある家庭の娘、戸主万能制のもとにある妻、母の、つながれた女の昔ながらの傷心が物を云っているところにある。女の過ちの実に多くが、感情の飢餓から生じている。その点にふれて見れば、女の・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・けれども、これらの作者たちは、いい合わせたように、現実のその面はえぐりださず、自身の側だけを、ああ、こうと、取上げ、その関係において中心を自分一個の弱さ暗さにうつし、結局、傷心風な鎮魂歌をうたってしまっている。 動揺のモメントが共産主義・・・ 宮本百合子 「冬を越す蕾」
・・・彼等の人生に対する抗議に、ゴーリキイは自分の憤りにみちた傷心がこめられているように感じる。けいず買いのトルーソフは、こういう人生の微妙な岐路にあるゴーリキイを眺めて、そして、云うのであった。「マクシム、お前は泥棒の悪戯には入るな! 俺は・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・そこで猜忌の悪徳のためにほとんど傷心してしまった。 そこでかれはあらためて災難一条を語りだした。日ごとにその繰り言を長くし、日ごとに新たな証拠を加え、いよいよ熱心に弁解しますます厳粛な誓いを立てるようになった。誓いの文句などは人のいない・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫