春先になれば、古い疵痕に痛みを覚える如く、軟かな風が面を吹いて廻ると、胸の底に遠い記憶が甦えるのであります。 まだ若かった私は、酒場の堅い腰掛の端にかけて、暖簾の隙間から、街頭に紅塵を上げて走る風に眼を遣りながら独り杯を含んでいま・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・昨年の春、えい、幸福クラブ、除名するなら、するがよい、熊の月の輪のような赤い傷跡をつけて、そうして、一年後のきょうも尚、一杯ビイル呑んで、上気すれば、縄目が、ありあり浮んで来る、そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、檀一雄氏、そ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・言いながら彼は股の毛をわけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」 私は、この場所から立ち去ろうと思った。「おれは、知らなかったものだから。」「いいのだよ。構わないのだよ。おれは・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・「K、僕のおなかのここんとこに、傷跡があるだろう? これ、盲腸の傷だよ。」 Kは、母のように、やさしく笑う。「Kの脚だって長いけれど、僕の脚、ほら、ずいぶん長いだろう? できあいのズボンじゃ、だめなんだ。何かにつけて不便な男さ。・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ 私はその差し伸べられた手の甲を熟視したが、それらしい傷跡はどこにも無かった。「お前の左の向う脛にも、たしかに傷がある筈だ。あるだろう? たしかにある筈だよ。それは俺がお前に石をぶっつけた時の傷だ。いや、よくお前とは喧嘩をしたものだ・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・高等学校のころには、頬に喧嘩の傷跡があり、蓬髪垢面、ぼろぼろの洋服を着て、乱酔放吟して大道を濶歩すれば、その男は英雄であり、the Almighty であり、成功者でさえあった。芸術の世界も、そんなものだと思っていた。お恥かしいことである。・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ アフリカの蛮人でくちびるを鐃にょうばちのように変形させているのや、顔じゅう傷跡だらけにしているのがあるが、あれはどうもどう見ても美しいと思えない。あれでもやはりまだあまりに多くわれわれに似すぎているからであろう。 ほんとうに非凡な・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
出典:青空文庫