・・・ だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしない所を見ると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまるで傀儡の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。そ・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。「心細いのが通り越して、気が変になっていたん・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 屏風の上へ、肩のあたりが露れると、潮たれ髪はなお乾かず、動くに連れて柔かにがっくりと傾くのを、軽く振って、根を圧えて、「これを着ましょうかねえ。」「洗濯をしたばかりだ、船虫は居ねえからよ。」 緋鹿子の上へ着たのを見て、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ と真になって打傾く。「車夫、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ あれあれ、その波頭がたちまち船底を噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大なる魚が飛んだ。 瞬間、島の青柳に銀の影が、パッと映して、魚は紫立ったる・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・朝夕忙しく、水門が白むと共に起き、三つ星の西に傾くまで働けばもちろん骨も折れるけれど、そのうちにまた言われない楽しみも多いのである。 各好き好きな話はもちろん、唄もうたえばしゃれもいう。うわさの恋や真の恋や、家の内ではさすがに多少の遠慮・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
夏の晩方のことでした。一人の青年が、がけの上に腰を下ろして、海をながめていました。 日の光が、直射したときは、海は銀色にかがやいていたが、日が傾くにつれて、濃い青みをましてだんだん黄昏に近づくと、紫色ににおってみえるのでありました・・・ 小川未明 「希望」
・・・ 午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。穉いときの古ぼけた写真のなかに、残っていた日向のような弱陽が物象を照らしていた。 希望を持てないものが、どうして追憶を慈しむことができよう。未来に今朝のような明・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜の空に写すのであった。 ――吾々は「扇を倒にした形」だとか「摺鉢を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫