・・・数日後、自分の子供の写真を下げて貰いたいと哀願している女の微かな声に私は緊張した注意と鋭くされた感情とをもって耳を傾けるのであった。〔一九三六年六月〕 宮本百合子 「写真」
・・・耳を傾ける人のすくない状態におかれていたからにほかならない。 婦人の独自な条件に立って体育、知育、徳育の均斉した発達の必要と、家庭生活における夫婦の「自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべからざる」人性の天然に従った両性関係の確立、再婚・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
・・・ あれやこれやの理由から、孝子夫人の資質を貫く熱い力は、よりひろくひろくと導かれ得ないで、日常身辺のことごとと対人関係の中で敏感にされ、絶えず刺戟され、些事にも渾心を傾けるということにもなったのではなかったろうか。 二昔ほど以前の生・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・何たる沈黙、沈黙を聞取ろうと耳傾ける沈黙――人が、己の愛す風景に向った時、必ず暫くは右のような謙虚な状態に陥るだろう。やがて徐々として確に、感情が目醒め始める、或る時は次第に律動が高まって終には唱わぬ心の音楽ともなろう。 その微かな閃光・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・自分たちの祖国のせまくとも誇りあるべき土の上に、浮浪児や失業者や体を売って生きる女性群を放浪させながら、少数のものが自覚のおそい日本人民の統治しやすさについて談笑しながら彼等の国際的なハイボールを傾ける姿を、わたしたち日本の女は、やはり黙っ・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
今日は心持の好い日だ。 空がくっきりと晴れ渡って、刷き寄せられるような白雲が、青い穂先の楡の梢を掠めて、彼方の山並の間に畳まって行く。 凝と坐って耳を傾けると、目の下の湖では淡黄色い細砂に当って溶ける優婉な漣の音が・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・から「自分の血統に傾ける心」を持って「自分の一族」の経歴を溯っている。作者は、自身の蹉跌や敗北の責任を「自分の意志を作り上げこそしたと思われる古い昔の父たち母たちに押しつけなすりつけようという」思いを自身軽蔑しつつそれに引かされている自分を・・・ 宮本百合子 「ヒューマニズムへの道」
・・・白いものがちらりと見えたり、かちゃりと鎖の音がしでもすると、私は矢を禦ぐ楯のようにいそいで傘を右に低く傾ける。登って行く時なら反対の方へ――左へ傾ける。それで眼で見ることだけは免れるようなものだが、私は楽でない。彼処にあれが、ああやって生存・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・児髷の子供も、何か分からないなりに、その爽快な音吐に耳を傾けるのである。 胡麻塩頭を五分刈にして、金縁の目金を掛けている理科の教授石栗博士が重くろしい語調で喙を容れた。「一体君は本当の江戸子かい。」「知れた事さ。江戸子のちゃきち・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・彼らはその労働を怠ることなくしてはこの老人の饒舌に耳を傾けることができない。そうして父が痛撃しようと欲する過激運動者のごときは一人も目に入らないのである。そういう人間がどこにいるかは、彼の同志になるか、または専門の刑事にでもならなければ解る・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫