・・・いや、いや、私はそう云う都合の好い口実の後で、あの人に体を任かした私の罪の償いをしようと云う気を持っていた。自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・アントニイもきっと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償いを見出したであろう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・しかしその償いにともちゃんを得た以上、不平をいわないでくれ。な、そうしておまえは新たに戸部の弟として新生面を開いてくれ。俺たちはそれを待っているから。じゃさよなら。一同かわるがわる握手する。花田 ともちゃん、おまえは俺たち・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・その償いの一端にさえ、あらゆる身上を煙にして、なお足りないくらいで、焼あとには灰らしい灰も残らなかった。 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。―― 十日ばかり前である。 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・かのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活き帰ら・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・み置かれたく候そなたが父は順逆の道を誤りたまいて前原が一味に加わり候ものから今だにわれらさえ肩身の狭き心地いたし候この度こそそなたは父にも兄にもかわりて大君の御為国の為勇ましく戦い、命に代えて父の罪を償いわが祖先の名を高め候わんことを返すが・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・われはこの損失を償いて余りある者を得たり。すなわちわれは思想なき児童の時と異なり、今は自然を観ることを学びたり。今や人情の幽音悲調に耳を傾けたり。今や落日、大洋、清風、蒼天、人心を一貫して流動する所のものを感得したり。 かるが故にわれは・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・よし現存の幸福が如何に大きくとも、この償い難き喪失の感情は彼に永遠の不安を与える。」というような文章があったけれども、そのしなかった悔いを噛みたくないばかりに、のこのこ佐渡まで出かけて来たというわけのものかも知れぬ。佐渡には何も無い。あるべ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・さき子さんも、以後は行いをつつしみ、犯した罪の万分の一にても償い、深く社会に陳謝するよう、社会の人、その罪を憎みてその人を憎まず。水野三郎。 これが、手紙の全文でございます。私は、水野さんが、もともと、お金持の育ちだったことを忘れていま・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・を喜ばすだけであって、ほんとうの科学者を培養するものとしては、どれだけの効果がはたしてその弊害を償いうるか問題である。特にそれが科学者としての体験を持たないほんとうのジャーナリストの手によって行なわれる場合にはなおさらの考えものである。・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
出典:青空文庫