・・・「昔、うちの隣にいた××××という人はちょうど元日のしらしら明けの空を白い鳳凰がたった一羽、中洲の方へ飛んで行くのを見たことがあると言っていたよ。もっともでたらめを言う人だったがね」 一四 幽霊 僕は小学校へはい・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 父が存生の頃は、毎年、正月の元日には雪の中を草鞋穿でそこに詣ずるのに供をした。参詣が果てると雑煮を祝って、すぐにお正月が来るのであったが、これはいつまでも大晦日で、餅どころか、袂に、煎餅も、榧の実もない。 一寺に北辰妙見宮のましま・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。 今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「おのれの姉は、元日に気が触れて、井戸の中で行水しよるわい」「おのれの女房は、眼っかちの子を生みよるわい」 などと、何れも浅ましく口拍子よかった中に、誰やら持病に鼻をわずらったらしいのが、げすっぽい鼻声を張り上げて、「やい、・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・去年の八月から掛って、やっと暮の三十一日に出来ましてん。元日から店びらきしょ思て、そら天手古舞しましたぜ」 場所がいいのか、老舗であるのか、安いのか、繁昌していた。「珈琲も出したらどうだね。ケーキつき五円。――入口の暖簾は変えたらど・・・ 織田作之助 「神経」
・・・ その四 三日目。 元日に、次男は郊外の私の家に遊びに来て、近代の日本の小説を片っ端からこきおろし、ひとりで興奮して、日の暮れる頃、「こりゃ、いけない。熱が出たようだ。」と呟き、大急ぎで帰っていった。果せるかな、・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・たとえば小さい子供がおおぜいあるような家ではちょうど大晦日や元日などによくだれかが風邪をひいて熱を出したりする。元旦だからというのでつい医者を呼ばなかったばかりに病気が悪化するといったような場合もありうるであろう。 高等学校時代のある年・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・いっこう元日らしいところはありません。きょうから隣の空室へ判事試補マイヤー君が宿をとりました。法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。 長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・早く手廻しをすればよいのに、元日になってから慌てて書き始める、そうして肩を痛くし胃を悪くして溜息をしているのが、傍から見ると全く変った道楽としか思われないのであった。 ところが、不思議なことに数年前から彼鵜照君の年賀状観が少なからず動揺・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・ 翌朝は宿で元日の雑煮をこしらえるのに手まがとれた。汽車の時間が迫ったので、みんな店先で草鞋をはいたところへやっと出来て来たので、上り口に腰かけたまま慌ただしい新春を迎えたのであったが、これも考えてみるとやはり官能的の出来事であった。や・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
出典:青空文庫