・・・彼が現在に本当に立ち上がって、その生命に充実感を得ようとするならば、物的環境はこばみえざる内容となってその人の生命の中に摂受されてこなければならぬ。その時その人にとって物的環境は単なる物ではなく、実に生命の一要素である。物的環境が正しく調節・・・ 有島武郎 「想片」
・・・この二つの道を行き尽くしてこそ充実した人生は味わわれるのではないか。ところがこの二つの道に踏み跨がって、その終わるところまで行き尽くした人がはたしてあるだろうか。五 人は相対界に彷徨する動物である。絶対の境界は失われた楽園で・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ 吾々の此の日常生活というものに対して些の疑をも挾まず、有ゆる感覚、有ゆる思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に触れるにしても直ちに其の物から出来るだけの経験と感覚とを得て生活の充実をはかる、此れが即ち人間のなすべ・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ というような言葉を選べるほど、私は充実した人生を送って来なかった。まかりまちがって墓銘を作るとすれば、せいぜい、「私は煙草を吸った」 と、いう文句ぐらいしか出て来ないであろう。これで十分である。私は煙草を吸って来たのだ。 ・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・個性の発展は内生活の充実により、この過剰が義務であって、強制や、外的必然ではない。個性を発展せしめるためには狭隘な孤立的自己に閉じこもらず、社会連帯の生活の中に、できるだけ他と協働する生活をひろげなくてはならぬ。最高の徳は義侠である。カント・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ その年転じて叡山に遊び、ここを中心として南都、高野、天王寺、園城寺等京畿諸山諸寺を巡って、各宗の奥義を研学すること十余年、つぶさに思索と体験とをつんで知恵のふくらみ、充実するのを待って、三十二歳の三月清澄山に帰った。 かくて智恵と・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・それによって生活の充実と向上とまた個性の発展とをはかるべきである。実際今日においては職業婦人は有閑婦人よりも、その生命の活々しさと、頭脳の鋭さと、女性美の魅力さえも獲得しつつあるのである。われわれの日常乗るバスの女車掌でさえも有閑婦人の持た・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。 二三人の小人数で、日本兵が街を歩いていると、武器を持ったアメリカ兵は、挑戦的につめよって来た。 兵士はヒヤ/\した。同時に、なんとも云えない不愉快な反撥したい感情を味わった。それは、・・・ 黒島伝治 「氷河」
こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 前便にくらべると、苦しみが沈潜して、何か充実している感じである。私は、三田君に声援を送った。けれども、まだまだ三田君を第一等の日本男児だとは思っていなかった。まもなく、函館から一通、お便りをいただいた。 太宰さん、御元気ですか。・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫