・・・この薄暗い内陣の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠の海にしているのだった。「御主、守らせ給え!」 彼はまた・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想の中にこう云う光景を夢みなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。こう云う光景は夢みるにさえ、余りに真実の幸福に溢れすぎているからである。 附記 わた・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・その日は夏の晴天で、脂臭い蘇鉄のにおいが寺の庭に充満しているころだったが、例の急な石段を登って、山の上へ出てみると、ほとんど意外だったくらい、あの大理石の墓がくだらなく見えた。どうも貧弱で、いやに小さくまとまっていて、その上またはなはだ軽佻・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・予はただこの北海の天地に充満する自由の空気を呼吸せんがために、津軽の海を越えた。自由の空気! 自由の空気さえ吸えば、身はたとえ枯野の草に犬のごとく寝るとしても、空長しなえに蒼く高くかぎりなく、自分においていささかの遺憾もないのである。 ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 見上げた破風口は峠ほど高し、とぼんと野原へ出たような気がして、縁に添いつつ中土間を、囲炉裡の前を向うへ通ると、桃桜溌と輝くばかり、五壇一面の緋毛氈、やがて四畳半を充満に雛、人形の数々。 ふとその飾った形も姿も、昔の故郷の雛によく肖・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・私なぞは見物の方で、お社前は、おなじ夥間で充満でございました。 二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処ではございますが、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・途中、四谷新宿へ突抜けの麹町の大通りから三宅坂、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直に、目的の明石町までと饒舌ってもいい加減の間、町充満、屋根一面、上下、左右、縦も横も、微紅い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談を容れる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常で誰にでも共鳴するかのように調子を合わせるから、イイ気になって知己を得たツモリで愚談を聴いてもらおうとすると、忽ち巧みに受流され・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎわなどが濡れてしまっているのを見たりすると全く憂鬱になりました。変に腹が立って来るのです。空はただ重苦しく垂れ下っています。「チョッ。ぼろ船の底」 或る日も私はそんな言葉で自分の部屋をのの・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・図画室は既に生徒及び生徒の父兄姉妹で充満になっている。そして二枚の大画が並べて掲げてある前は最も見物人が集っている。二枚の大画は言わずとも志村の作と自分の作。 一見自分は先ず荒胆を抜かれてしまった。志村の画題はコロンブスの肖像ならんとは・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
出典:青空文庫