・・・と母は湯呑に充満注いでやって自分の居ることは、最早忘れたかのよう。二階から大声で、「大塚、大塚!」「貴所下りてお出でなさいよ」と母が呼ぶ。大塚軍曹は上を向いて、「お光さん、お光さん!」 外所は豆腐屋の売声高く夕暮近い往来の気・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由を打明けないと決心てるから、仕様事なしにこう言った。「充満で御座います」とお徳は一言で拒絶した。「そうか」真蔵は黙って了う。・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・そこには豚の脂肪や、キャベツや、焦げたパン、腐敗した漬物の臭いなどが、まざり合って、充満していた。そこで働いている炊事当番の皮膚の中へまでも、それ等の臭いはしみこんでいるようだった。「豚だって、鶏だってさ、徴発して来るのは俺達じゃないか・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・が、すくなくとも、今日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも、おそるべき病菌が充満している。汽車・電車は毎日のように衝突したり、人をひいたりしている。米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下している。警察・裁判所・監獄は、多忙をきわめて・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・が如きことなき世の中となれば、人は大抵其天寿を全くするを得るであろう、私は斯様な世の中が一日も速く来らんことを望むのである、が、少くとも今日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも恐るべき病菌が充満して居る、汽車・電車は、毎日のように・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 見よ其裁判の曖昧なる其処分の乱暴なる、其間に起れる流説の奇怪にして醜悪なる、世人をして殆ど仏国の陸軍部内は唯だ悪人と痴漢とを以て充満せらるるかを疑わしめたり。怪しむ勿き也。軍隊の組織は悪人をして其凶暴を逞しくせしむること、他の社会より・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・朝霧が、もやもや木立に充満している。 単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取っ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・苦笑なさるかも知れませんが、あなたの住んでいらっしゃる世界には、光が充満しています。それこそ朝夕、芸術的です。あなたが、作品の「芸術的な雰囲気」を極度に排撃なさるのも、あなたの日常生活に於いてそれに食傷して居られるからでもないか知らとさえ私・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ まず器械の歴史から、その原理構造などを明快に説明した後にいよいよ実験にとりかかった時には異常な緊張が講堂全体に充満していたわけである。いよいよ蝋管に声を吹き込む段となって、文学士は吹き込みラッパをその美髯の間に見える紅いくちびるに押し・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・桀紂と云えば古来から悪人として通り者だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く被ってるから小憎らしい」「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似がしたくなるんだ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫