・・・「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候も見えないようでしたがな。――」 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後で発したかと思うんです。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 自己嫌悪 最も著しい自己嫌悪の徴候はあらゆるものにうそを見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又を見つけることに少しも満足を感じないことである。 外見 由来最大の臆病者ほど最大の・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・麦類には黒穂の、馬鈴薯にはべと病の徴候が見えた。虻と蚋とは自然の斥候のようにもやもやと飛び廻った。濡れたままに積重ねておいた汚れ物をかけわたした小屋の中からは、あらん限りの農夫の家族が武具を持って畑に出た。自然に歯向う必死な争闘の幕は開かれ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・人に小用をさせたりして、碌々熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度という恐ろしい熱を出してどっと床についた時の驚きもさる事ではあるが、診察に来てくれた二人の医師が口を揃えて、結核の徴候があるといった時には、私は唯訳もなく・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ なんでも其の顔付は、極端な腎臓病に罹っているような徴候らしくあった。それだのにこうして医者にも見せずにしかも幼児の守をさして置くのは畢竟貧しいが為ではなかろうか。人は境遇によって自然と奮闘する力の強弱がある。此児は果して生を保ち得よう・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・然しこうした詩の徴候は或は現在の生活に限られている現象であるかも知れない。しかし、芸術は其の時代の霊魂である。鏡である。詩は其の時代の生活の焔であるからだ。私たち今日の凡ての努力、それは精神運動の上に於ても、また社会運動の上に於ても、少しく・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・ 三「実は、この間うちからどうもそんなような徴候が見えたから、あらかじめ御注意はしておいたのだが、今日のようじゃもう疑いなく尿毒性で……どうも尿毒性となると、普通の腎臓病と違ってきわめて危険な重症だから……どうです、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そしてそれは何時も私自身の精神が弛んでいるときの徴候でした。然し私自身みじめな気持になったのはその時が最初でした。梅雨が私を弱くしているのを知りました。 電車に乗っていてもう一つ困るのは車の響きが音楽に聴えることです。私はその響きを利用・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 何人もの人間がある徴候をあらわしある経過を辿って死んでいった。それと同じ徴候がおまえにあらわれている。 近代科学の使徒の一人が、堯にはじめてそれを告げたとき、彼の拒否する権限もないそのことは、ただ彼が漠然忌み嫌っていたその名称ばか・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫