・・・ 追腹を切って阿部彌一右衛門は死んでしまったが、そうやって死んでも阿部一族への家中の侮蔑は深まるばかりで、その重圧に鬱屈した当主の権兵衛が先代の一周忌の焼香の席で、髻を我から押し切って、先君の位牌に供え、武士を捨てようとの決心を示した。・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ごたついているところに目をつけて、例の満州へよく行く人物を、技術家の代理と称さして、先代と口約を交してあった後継息子のところへ株を貰いにやった。頼まれた人物は創立当時の価格でそれをうまく受けとって、現価で依頼人に売った。そのことは、半ヵ月も・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・「先代をくわしく知るものはないがなんでも都の歌人でござったそうじゃが歌枕とかをさぐりにこのちに御出なさってから、この景色のよさにうち込んで、ここに己の骨を埋めるのだと一人できめて御しまいなされ京からあととりの若君、――今の殿が許婚の姫君・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・ 海老屋では、家事を万事とりしきってしているという年寄り――五十四五になっている先代の未亡人――が会った。 金庫だの箪笥だのを、ズラリと嵌め込みにした壁際に、帳面だの算盤だのをたくさん積み重ねた大机を引きつけて、男のような、といって・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 企業的な性質に富んで居た此家の先代が後半世を、非常に熱心に尽して居た極く小さな農村がこの東北の、かなり位置の好い処にある。 かなり高くて姿の美くしい山々――三春富士、安達太良山などに四方をかこまれて、三春だの、島だのと云う村々と隣・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・役所でも先代の課長は不真面目な男だと云って、ひどく嫌った。文壇では批評家が真剣でないと云って、けなしている。一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・寛永九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公肥後へ御入国遊ばされ候時、景一も御供いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年八十四歳に候。 兄九郎兵衛一友は景一が嫡子にして、父につきて豊前へ参り、慶・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは仏と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内にも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重な祭をしている。とこ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・まだ七十近い先代の主人が生きていて、隠居為事にと云うわけでもあるまいが、毎朝五時が打つと二階へ上がって来て、寝ている女中の布団を片端からまくって歩いた。朝起は勤勉の第一要件である。お爺いさんのする事は至って殊勝なようであるが、女中達は一向敬・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫