・・・ というそんな微妙な事情を、寿子はさすがに継子の本能で、敏感に嗅ぎつけていたから、自分の眠れないことよりも、まず自分のヴァイオリンが母親の眠りを邪魔をしていることの辛さが先立つのだった。 だから、早いこと巧く弾いて、父親から「出来た・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・知った大阪の土地で易者は恥しいが、それも照枝のためなら辛抱する、自分もまた帰りたい土地なのだと、思い立って見ても、先立つものは旅費である。二人分二十円足らずのその金が、纒ってたまったためしもなかったのだ。 赤玉のムーラン・ルージュがなく・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・防備の陣を張るにも先立つものは矢張金である。金を獲るには僕の身としては書くのが一番の捷径であろう。恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見たから、一寸一服、筆休めに字数と紙数とをかぞえよう。 そもそ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・十二月二十四日開催の第七十三議会に先立つこと九日の十五日に日本無産党・全評を中心として全国数百人の治維法違反容疑者の検挙が行われ、議会に席を有する加藤勘十、黒田寿男氏等は何日も経ず起訴された。被検挙者中には、大森義太郎、向坂逸郎、猪俣津南雄・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 彼女は自分を来るべき女性の時代に先立つ一人の偵察者、冒険者としたのです。 数年は、又順調に過ぎました。 ところが長男のハフが十六七歳になると、続いて、悲しむべき事件が起り始めました。 ハフは、三度も落第して、父親の卒業した・・・ 宮本百合子 「「母の膝の上に」(紹介並短評)」
・・・ 後れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。 これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。「わたし一番よ」・・・ 森鴎外 「杯」
・・・ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は能の演・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
・・・東京転任に先立つ数か月、四十二年四月に上京せられた際には、井上、元良などの「先生」たちを訪ねていられるし、また井上、元良両先生の方でも、田中喜一、得能、紀平などの諸氏とともに、学士会で西田先生のために会合を催していられる。田中、得能、紀平な・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫