・・・ジャンと来て見ろ、全市瓦は数えるほど、板葺屋根が半月の上も照込んで、焚附同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。 思案に余・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。 極暑の、旱というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・それから一分おき二分おきに、なおどんどん方々から火が上り、夕方六時近くには全市で六十か所の火が、おのおの何千という家々をなめて、のびひろがり、夜の十二時までの間にはすべてで八十八か所の火の手が、一つになって、とうとう本所、深川、浅草、日本橋・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。市民はすべて浮足立ち、家財道具を車に積んで家族を引き連れ山の奥へ逃げて行き、その足音やら車の音が深夜でも絶える事なく耳についた。それはもう甲府も、・・・ 太宰治 「薄明」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請け合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業になんらかの方法で手を貸しうると仮定すると、四十万人の手・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業に何らかの方法で手を借し得ると仮定すると、四十万人の手で五・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の慢性的郷愁と混合して一種特別な眠けとなって額をおさえつけるのであった。この・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・それで自然損害の一番ひどい局部だけを捜し歩いて、その写真を大きく紙面一杯に並べ立てるから、読者の受ける印象ではあたかも静岡全市並びに附近一帯が全部丸潰れになったような風に漠然と感ぜられるのである。このように、読者を欺すという悪意は少しもなく・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・そしてその日の夕刊に淀橋近くの水道の溝渠がくずれて付近が洪水のようになり、そのために東京全市が断水に会う恐れがあるので、今大急ぎで応急工事をやっているという記事が出た。 偶然その日の夕飯の膳で私たちはエレベーターの話をしていた。あれをつ・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。 古来の大火の顛末を調べてみるといずれの場合でも同様な運命ののろいがある。明暦三年の振袖火・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
出典:青空文庫