・・・が、彼等の菩提を弔っている兵衛の心を酌む事なぞは、二人とも全然忘却していた。 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃を合せながら、心静にその日を待った。今はもう敵打は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、た・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味った事であろう。彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 具体案ができ上がったら、私は全然この農場から手を引くことにします。私も今後は経済的には自分の力だけの範囲で生活する覚悟でいますが、従来親譲りの遺産によって衣食してきた関係上、思うようにいかない境遇に追いつめられるかもしれません。そんな・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・油でもコンテでも全然抜群で美校の校長も、黒馬会の白島先生も藤田先生も、およそ先生と名のつく先生は、彼の作品を見たものは一人残らず、ただ驚嘆するばかりで、ぜひ展覧会に出品したらというんだが、奴、つむじ曲がりで、うんといわないばかりか、てんで今・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・そんな事は全然不可能ではないか。 こう思って見ていると、今一秒時間の後に、何か非常な恐ろしい事が出来なくてはならないようである。しかしその一秒時間は立ってしまう。そしてそれから処刑までの出来事は極めて単純である。可笑しい程単純である。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・、そういう文学は、我々――少くとも私のように、健康と長寿とを欲し、自己及自己の生活を出来るだけ改善しようとしている者に取っては、無暗に強烈な酒、路上ででも交接を遂げたそうな顔をしている女、などと共に、全然不必要なものでなければならぬ。時代の・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 不思議にここで逢いました――面影は、黒髪に笄して、雪の裲襠した貴夫人のように遥に思ったのとは全然違いました。黒繻子の襟のかかった縞の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖を、帯も見えないくらい引合せて、細・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・、薫香の趣味声音の趣味相俟って、品格ある娯楽の間自然的に偉大な感化を得るのであろう加うるに信仰の力と習慣の力と之を助けて居るから、益々人を養成するの機関となるのである、欧風の晩食と日本の茶の湯と、全然同じでないは云うまでもないが、頗る類・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 八 青木というのは、来遊の外国人を当て込んで、箱根や熱海に古道具屋の店を開き、手広く商売が出来ていたものだが、全然無筆な男だから、人の借金証書にめくら判を押したため、ほとんど破産の状態に落ち入ったが、このごろでは多・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
夏目さんとは最近は会う機会がなかった。その作も殆んど読まない。人の評判によると夏目さんの作は一年ましに上手になって行くというが、私は何故だかそうは思わない、といって私は近年は全然読まないのだから批評する資格は勿論ないのであ・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
出典:青空文庫