・・・中の犬たちはおおよろこびでとび出して、八方へにげていきました。肉屋の二ひきの犬は肉屋の足もとへとんで来て、くんくん言ってよろこびました。 こんなさわぎがあってから、二、三年の後です。ふたりは、やはり毎日一しょに出て来ましたが、そのうちに・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・私も、大兄お言いつけのものと同額の金子入用にて、八方狂奔。岩壁、切りひらいて行きましょう。死ぬるのは、いつにても可能。たまには、後輩のいうことにも留意して下さい。永野喜美代。」「先日は御手紙有難う。又、電報もいただいた。原稿は、どういう・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですが、よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして、やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい。今月末まで必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたりから二十円、やむを得ずば十円・・・ 太宰治 「誰」
・・・笠井さんも、流石に、もう、いやになった。八方ふさがり、と言ってしまうと、これもウソなのである。進める。生きておれる。真暗闇でも、一寸さきだけは、見えている。一寸だけ、進む。危険はない。一寸ずつ進んでいるぶんには、間違いないのだ。これは、絶対・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・ 高い旗竿から八方に張り渡した縄にはいろいろの旗が並んで風に靡いている。その中に日の丸の旗のあるのが妙に目に立って見えた。 連れの日本人はその連れのドイツ女の青い上着を小脇にかかえて歩いていた。私は自分の重い外套をかかえて黙ってその・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・第一、実地ではこんなに演奏者を八方から色々の距離と角度で眺めることは不可能であるが、そればかりでなく映画のカメラは吾らの眼の案内をして複雑な管弦楽の編成の内容を要領よく解明してくれる。曲の各部をリードしている楽器を時々に抽出してその方に吾々・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・人殺しの罪人でさえも官費で弁護士がつけられる世の中に、効はあっても罪のない論文提出者は八方から虫眼鏡で瑕を捜され叱責されることになるのである。たとえ明白な誤謬は一つもない論文であっても、一人の人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・蝙蝠傘の上などに落ちて凍った雨滴を見ると、それが傘の面に衝突して八方に砕け散った飛沫がそのままの形に氷になっている。 凍雨と雨氷はほぼ同様な気層の状態に帰因する。すなわち地面に近く著しく寒冷な気層があって、その上に氷点以上の比較的温暖な・・・ 寺田寅彦 「凍雨と雨氷」
・・・ ぱっと塔のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、塔の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色の灰でも落とすようにずるずると直下に堆積し・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・鉄で作った金平糖のようなえらの八方へ出た星を、いくらか歪みなりにできた長味のある輪から抜き取るのや、象牙でこしらえた小さい角棒の組合せから、糸で繋いだ、それよりも小さい砕片を潜らせるのや、いろんなのがあった。おひろはそんな物が好きであった。・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫