・・・……「八月×日 俺は今日マネエジャアの所へ商売のことを話しに行った。するとマネエジャアは話の中にも絶えず鼻を鳴らせている。どうも俺の脚の臭いは長靴の外にも発散するらしい。……「九月×日 馬の脚を自由に制御することは確かに馬術よりも困・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
〔八月〕二十七日 朝床の中でぐずついていたら、六時になった。何か夢を見たと思って考え出そうとしたが思いつかない。 起きて顔を洗って、にぎり飯を食って、書斎の机に向ったが、一向ものを書く気にもならない。そこで読みかけの・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
ドゥニパー湾の水は、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
八月十七日私は自分の農場の小作人に集会所に集まってもらい、左の告別の言葉を述べた。これはいわば私の私事ではあるけれども、その当時の新聞紙が、それについて多少の報道を公けにしたのであるが、また聞きのことでもあるから全く誤・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ 八月二十五日夜の大火は、函館における背自然の悪徳を残らず焼き払った天の火である。予は新たに建てらるべき第二の函館のために祝福して、秋風とともに焼跡を見捨てた。 札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を味うことができた。日本一の大原・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。「じゃ、九人になる処だった。貴女の内・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・の……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事があ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・秋の初め、そうだ八月の下旬、浜菊の咲いてる時であった。 お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山、東鷄冠山の中間にあるピー砲台攻撃に向た。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 八月の赫灼たる太陽の下で、松の木は、この曠野の王者のごとく、ひとりそびえていました。 ある日のこと、一人の旅人が、野中の細道を歩いてきました。その日は、ことのほか暑い日でした。旅人は野に立っている松の木を見ますと、思わず立ち止・・・ 小川未明 「曠野」
出典:青空文庫