・・・当時米国の公使として令名のあった森有礼氏に是非米国の婦人を細君として迎えろと勤めたというのもその人だ。然し黒田氏のかゝる気持は次代の長官以下には全く忘れられてしまった。惜しいことだったと私は思う。 私は北海道についてはもっと具体的なこと・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・ツイ昨年易簀した洋画界の羅馬法王たる黒田清輝や好事の聞え高い前の暹羅公使の松方正作の如きもまた早くから椿岳を蒐集していた。が、椿岳の感嘆者また蒐集家としては以上の数氏よりも遅れているが、最も熱心に蒐集したのは銀座の天居であった。天居といって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・殊にテオドラ嬢の父は元老院議官であったが、英国のセネートアの堂々たる生活ぶりから期待したとは打って変った見窶らしい生活が意に満たないで、不満のある度に一々英国公使に訴え、公使がまた一々取次いで外相井侯に苦情を持込むので、テオドラ嬢の父は事毎・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 何如璋は、明治十年頃から久しい間東京に駐剳していた清国の公使であった。 葉松石は同じころ、最初の外国語学校教授に招聘せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して、大阪で病死した。遺稿『煮薬漫抄』の初めに詩人小野湖山のつくった略伝が載・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ 英国人サー・アーノルドの漫遊記、また英国公使フレザー夫人の著書の如きは、共に明治廿二、三年のころの日本の面影を窺わしめる。 わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷瘤寺の墓場に藪蚊の多かっ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しといえども、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・ きのうなどでも、有田外相の答弁には、英国の極東支店長みたいなことをいうナとか、駐日公使! とかいう彌次が盛んにとんだ。辛辣のようだけれども、本当の心持で日本の対外関係を案じている傍聴人の耳に、そういう彌次の濫発が果して頼もしい代議士連・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・ 王族広間の上のはてに往き着きたまいて、国々の公使、またはその夫人などこれを囲むとき、かねて高廊の上に控えたる狙撃連隊の楽人がひと声鳴らす鼓とともに「ポロネエズ」という舞はじまりぬ。こはただおのおの右手にあいての婦人の指をつまみて、この・・・ 森鴎外 「文づかい」
出典:青空文庫