・・・るのみ、果して其意味を解釈するも事に益することなきは実際に明なる所にして、例えば和文和歌を講じて頗る巧なりと称する女学史流が、却て身辺の大事を忘却して自身の病に医を択ぶの法を知らず、老人小児を看病して其方法を誤り、甚しきは手相家相九星八卦等・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・わしの戦ぎは総て世の中の熟したものの周囲に夢のように動いておるのじゃ。其方もある夏の夕まぐれ、黄金色に輝く空気の中に、木の葉の一片が閃き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・裁判官が再三注意を与えて、七、其方は火をつけたのではあるまい、火を運んで居て誤って落したのであろう、などというたかもしらぬ。その時お七はわろびれずに、いいえ、吉三さんに逢いたいばかりに、火をつけたらもし逢わりょうかと思うて、つけたのでござい・・・ 正岡子規 「恋」
・・・ はあ、と云って立って居るのでもう一度同じ言葉を繰返すと、その青年は、ひどく心得た調子で「まあどうぞ其方へおかけ下さい」と、まるで自分が主人ででもあるような口調で私に、彼にすすめる椅子を進めた。「荷物がありますから」 ち・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ 雑信 C先生。 其方は如何でございますか、此の紐育から二百哩程隔った湖畔は、近頃殆ど毎日の雨に降り籠められて居ります。或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・左手はずっと砂丘つづきで、ぼんやり灰色にかすんでいる。其方の方に向って、私の家の女中が一人で一生懸命に走って行く姿が小さく見える。良人が、「何にしに行くのだ?」と云うようなことを訊いた。私は其方を眺め、なかなか遠く迄行かなければなら・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・ 彼等の先へ、二人連れの男がぶらぶら行くのでなほ子はそう云ったのであったが、少し行くと其方は行き止りであった。「おやおや、怪しい道案内だな。――誰か訊く人はないか――訊いて見よう」「大丈夫よ、じゃあ此方」 一つの共同風呂の窓・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・昼間、太陽が野天に輝やいて、遠くの森が常緑の梢で彼を誘惑する時、雄鳩は白い矢のように勇ましく其方へ翔んだ。けれども夕方が地球の円みを這い上って彼の本能に迫る時、雄鳩は急な淋しさを覚えた。彼は畑や、硝子をキラキラ夕栄えさせる温室の陰やらを気ぜ・・・ 宮本百合子 「白い翼」
・・・の規定のなかに入れられていない筈の世襲の特権・門地・特権地位者を、引出して来て、肝心の主権をそっくり人民の手の中から其方へ握らせているのである。 主権在民ということは、最少限に考えて、人民自身が、行政、司法、立法の全権を有すという意味で・・・ 宮本百合子 「矛盾とその害毒」
・・・勿論、私は其方へ近づいて見ました。すると、大勢の人垣の中には、唯一人の少年がしきりに何か話しています。まだやっと十一か十二位の少年が、手に小さい帳面と鉛筆と、何か印刷したものとを持って、一生懸命に話しているのです。沢山の、思い思いの風をした・・・ 宮本百合子 「私の見た米国の少年」
出典:青空文庫