・・・省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。「おッ母さん、追い出されてきました」 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、「そらまあ……」 ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・武は黙って内庭に入りました。私は足が進みません、外でためらっていますと、『お入りなされ!』と暗いところで武が言いました。 その声は低いけれども底力があって、なんだか私を命令するようでした。『ここで見てやるから持って来い』と私は外・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・かりせびる泣く児のように思っている人民の地、文化は勝れ、学問諸芸遊伎等までも秀でている地の、其の堺の大小路を南へ、南の荘の立派な屋並の中の、分けても立派な堂々たる家、納屋衆の中でも頭株の嚥脂屋の奥の、内庭を前にした美しい小室に、火桶を右にし・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 工場の内庭に面した方の窓全体に、強いアーク燈の光がさしている。時々起重機の巨大な黒い影が、重くゆっくり窓の外を横切った。〔一九三一年五月〕 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・非番巡査まで非常召集され顎紐をかけ脚絆をつけた連中が内庭と演武場に充満して佩剣をならしている。 高等室では主任と宿直だけがのこり、署の入口のところに二台大トラックが止って、二人の普通の運転手がその上でだらしなく居睡りをしている。 頻・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・昔、宇野浩二が書いた小説に、菊富士ホテルの内庭で、わからない言葉で互によんだり、喋ったりしながら右往左往しているロシアの小人たちの旅芸人の一座を描いたものがあった。植込みや泉水のある庭のあちこちを動いたり、その庭に向っている縁側を男や女の小・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・もう一つあちら側に戸口があってそこから内庭――建物の全然反対な通りまで出られる石敷のがらんとした玄関。階段を登り、右手の扉を押して入った。そこは一般の廊下である。いくつも同じような樺色の平凡な戸が廊下に向って並んでいる。一つの戸は内部に入れ・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
・・・煙は風呂場の下から逆に勘次の眼を攻めて、内庭へ舞い込むと、上り框から表の方を眺めている勘次の母におそいかかった。と、彼女は、天井に沿っている店の缶詰棚へ乱れかかる煙の下から、「宝船じゃ、宝船じゃ。」と云いながら秋三が一人の乞食を連れて這・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫