・・・日本の旅館の不快なる事は毎朝毎晩番頭や内儀の挨拶、散歩の度々に女中の送迎、旅の寂しさを愛するものに取ってはこれ以上の煩累はあるまい。 何処へ行こうかと避暑の行先を思案している中、土用半には早くも秋風が立ち初める。蚊遣の烟になお更薄暗く思・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・十本も入れてくれれば、何ぼいいかしんないのにねえ、と、山の茶屋のお内儀が話した。でも、尼さんは、そんなことはしないだろう。辷りそうなとき自分は、季節が秋であろうが、雪下駄を穿けば、それには辷り止めの金具がついているから平気だもの。正直にすべ・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
出典:青空文庫