・・・その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはし・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・妙な事にはこの汚い床の上に打倒れてうめいている自分とは別にまた自分があって倒れている自分を冷やかに傍観しているような気がした事であった。 助手の浅利君は部屋に居なかった、出勤している事は帽子掛の帽子と外套でわかっているが朝から顔を見なか・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・ 川端へ出ると、雨が一雫二雫顔に当たって、冷やかな風がふいていた。 家へ帰ってくると、道太は急いで著物をぬいで水で体をふいたが、お絹も襦袢一枚になって、お弁当の残りの巻卵のような腐りやすいものを、地下室へしまうために、蝋燭を点して、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方、花の下行く風の襟元に冷やかなる頃のそぞろあるき。 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・部屋の隅を見ると冷やかにカーライルの寝台が横わっている。青き戸帳が物静かに垂れて空しき臥床の裡は寂然として薄暗い。木は何の木か知らぬが細工はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵を回らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合の花弁をひたふるに吸える心地である。ランスロット・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・とおたがいに冷やかに眺めあっているだけならば、そこには新聞の社会面と同様に、歴史の前進性、建設性に対して責任をもたない傍観主義があるだけです。「進歩的な」学生たちのグループが、こういう社会現実に対してもし商業新聞の社会面的にみるだけという態・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・両親を失ったのは不運ときめて、冷ややかなものです。 ソヴェトの世の中、働くものの世界がくれば、どの子だって生まれたからにはソヴェトの子、働くものの社会の子、です。 仕合わせになるよう、いい働きてとなるよう、国家の力で育てあげる。その・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・そしてめまぐろしく歩き廻りながら饒舌っている秀麿を、冷やかに見ている。 秀麿は綾小路の正面に立ち止まって相手の顔を見詰めた。蒼い顔の目の縁がぽっと赤くなって、その目の奥にはファナチスムの火に似た、一種の光がある。「なぜ。なぜ駄目だ。」・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・そうして、そういう冷やかな態度を取らなければ満足の出来ない自分を密かに悲しみはしなかったか。 自分の内には、永い間、押えつけているものと押えつけられている者との間の争闘があった。苦痛が絶えず心を噛んでいた。この苦痛は主我の思想によって転・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫