・・・そしてその自由というのは「自分の感情と思想とを独立させて、冷然と眺めることのできる闊達自在な精神なんだ」といわれている。ここから、当時文学青年の間に大流行をきわめた横光の観念的な心理主義が生れた。やがて無人格な三人称の私というものが発明され・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・足元を見こんで、法外な事はしないがいいと栄蔵は怒ったけれ共、冷然と笑いながら、「人の足元を見ないでいい商売は出来ませんやね。と云った。そしてとうとう桐は五十円で落されてしまった。 紫の雲の様に咲く花ももう見られないと達は・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ それに涙が有ろうが有るまいが死の司は只冷然とそのとぎすました鎌で生の力と争いつつ片はじからなぎ立てるのみが彼の仕事で又楽しい事なのであろう。 到々私は呼ばれた。 引きたてられる罪人の様に苦しく苦しく見たくもなくて見ずには居られ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・高邁にして自由な精神とは「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る闊達自在な精神」であるとして横光氏によって提出されたのである。青野季吉氏は「紋章」にすっかり「圧迫され」横光氏の「自由の精華」に讚辞を惜しまれなかったのであるが・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 石田は暫く黙っていて、極めて冷然としてこう云った。「己は玉子が食いたいときには買うて食う。」 婆あさんは歯痒いのを我慢するという風で、何か口の内でぶつぶつ云いながら、勝手へ下った。 七月十日は石田が小倉へ来てからの三度目の・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」冷然として言い放った。 お豊さんの拒絶があまり簡明に発表せられたので、長倉のご新造は話のあとを継ぐ余地を見いだすことが出来なかった。しかしこれほどの用事・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ もしもコンミニストが、此の文学の、恰も科学の持つがごとき冷然たる素質を排撃するとしたならば、彼らの総帥の曾て活用したる唯物論と雖も、その活用させたる科学的態度を、その活用なし得た科学的部分に於て排撃されねばならぬであろう。・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・しかし、医師は法医学に従って、冷然としてなお一本の注射を打とうといい始めた。ただ、生き残っているもののためのみに。「いや、いや。」と彼の妻は彼より先に医師の言葉を遮った。「よしよし、じゃ、もう打つのは止そう。」「あなた、もうあた・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦慄を覚え、黒黒とした樹立の沈黙に身をよせかけていくように歩いた。「僕はね、先生。」とまた暫くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。「いま僕は一つ、悩んでいることがあるんですよ。」「何んです。」・・・ 横光利一 「微笑」
・・・社会主義が奮然として赤旗を翻す時、帝国主義は冷然として進水式をやっている。電車のただ乗りを発明する人と半農主義者とは同じ米を食っている。身のとろけるような艶な境地にすべての肉の欲を充たす人がうらやまれている時、道学先生はいやな眼つきで人を睨・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫