・・・私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。 愈々H海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍を堅めていた。二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・などをお書きになっていらした頃は、文学者の孤独または小説の道の断橋を、凄惨な程、強烈に意識なされていたのではなかろうか。 四十歳近い頃の作品と思われるが、その頃に突きあたる絶壁は、作家をして呆然たらしめるものがあるようで、私のような下手・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ これが、ひや酒となると、尚いっそう凄惨な場面になるのである。うなだれている番頭は、顔を挙げ、お内儀のほうに少しく膝をすすめて、声ひそめ、「申し上げてもよろしゅうございますか。」 と言う。何やら意を決したもののようである。「・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・とるように見えるにちがいないと私もそれに気がついて、人々のあとについて行き、舞鶴城跡の石の段々を、多少ぶるぶる震えながらのぼっていって、やっと石垣の上の広場にたどりつき、見ると、すぐ真下に、火事が轟々凄惨の音をたてて燃えていた。噴火口を見下・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・また、うっかり注射でも怠ろうものなら、恐水病といって、発熱悩乱の苦しみあって、果ては貌が犬に似てきて、四つ這いになり、ただわんわんと吠ゆるばかりだという、そんな凄惨な病気になるかもしれないということなのである。注射を受けながらの、友人の憂慮・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・あてにしていた夢が、かたっぱしから全部はずれて、大穴あけて、あの悽惨、焦躁、私はそれを知っている。その地獄の中でだけ、この十年間を生きて来た。もう、いやだ。私は、幸福を信じない。光栄をさえ信じない。ほんとうに、私は、なんにも欲しくない。私に・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・おれの凄惨な一声で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思ったら喉まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉し去った。 もはや、た・・・ 太宰治 「一つの約束」
・・・それが巫女の魔法を修する光景に形どって映写されているようであるが、ここの伴奏がこれにふさわしい凄惨の気を帯びているように思う。哀れな姫君の寝姿がピアニシモで消えると同時に、グヮーッとスフォルザンドーで朗らかなパリの騒音を暗示する音楽が大波の・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・で知盛の幽霊が登場し、それがきらきらする薙刀を持って、くるくる回りながら進んだり退いたりしたその凄惨に美しい姿だけが明瞭に印象に残っている。それは、たしか先代の左団次であったらしい。そうして相手の弁慶はおそらく団十郎ではなかったかと思われる・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 安岡は研ぎ出された白刃のような神経で、深谷が何か正体をつかむことはできないが、凄惨な空気をまとって帰ったことを感じた。 ――決闘をするような男じゃ、絶対にないのだが。―― 安岡は、そんな下らないことに頭を疲らすことが、どんなに・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫