・・・ 妙子は遠藤の胸に凭れながら、呟くようにこう言いました。「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」「だってお婆さんがいるでしょう?」・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・少将は椅子の背に靠れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、――急にため息を洩らした。 室の壁にはどこを見ても、西洋の画の複製らしい、写真版の額が懸けてあった。そのある物は窓に倚った、寂しい少女の肖像だった。またある物は糸杉の間に、・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭主が、売溜の銭箱の蓋を圧えざまに、仰向けに凭れて、あんぐりと口を開けた。 瓜畑を見透しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と見ると、板戸に凭れていた羽織袴が、「やあ!」 と耳の許へ、山高帽を仰向けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包を大な懐中に入れて、茶紬を着た親仁も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いず・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子に凭れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然とし・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・と滝に臨んだ中二階の小座敷、欄干に凭れながら判事は徒然に茶店の婆さんに話しかける。 十二社あたりへ客の寄るのは、夏も極暑の節一盛で、やがて初冬にもなれば、上の社の森の中で狐が鳴こうという場所柄の、さびれさ加減思うべしで、建廻した茶屋休息・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・が、気疾に頸からさきへ突込む目に、何と、閨の枕に小ざかもり、媚薬を髣髴とさせた道具が並んで、生白けた雪次郎が、しまの広袖で、微酔で、夜具に凭れていたろうではないか。 正の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉の立つようなお澄は、呼吸も黒くなる・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・中にはまた首でも縊りそうな顔をして、冷たい壁に悄り靠れている者もある。私もそういう人々と並んで、さしあたり今夜の寝る所を考えた。場内の熱狂した群衆は、私の姿など目にも留めない。 そのうちに閉場の時刻が来た。ガランガランという振鈴の音を合・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・としばらくしてから口に出して言ったが、妙に目を光らせてあたりを見廻し、膝の上の端書を手早く四つに折って帯の間へ蔵うと、火鉢に凭れて火をせせり出す。 長火鉢の猫板に片肱突いて、美しい額際を抑えながら、片手の火箸で炭を突ッ衝いたり、灰を平し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・私は太左衛門橋の欄干に凭れて、道頓堀川の汚い水を眺めているうちに、ふと東京へ行こうと思った。 その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ。一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩い・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫