・・・自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 老人は私の顔を天眼鏡で覗いて見たり、筮竹をがちゃがちゃいわして見たり、まるで人相見と八卦見と一しょにやっていましたが、やがてのことに、『イヤ御心配なさるな、この児さんは末はきっと出世なさるる、よほどよい人相だ。けれど一つの難がある・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・仏陀の方便の権教を、真実教と間違えたところにある。仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」に・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・く解っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛い思いをしても辛棒をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆が云うけ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決っていないもので、かえって外の者の嫉みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうす・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・し、自分の息子を賞め、こんなことになったのは他人にだまされたんだと云い、息子をとられて、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分らない大事な一人息子だか・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「これから将来、君がどんな出世をするかも知れない。僕がまた今日の君のように困らないとも限らない。まあ、君、左様じゃないか。もし君が壮大な邸宅でも構えるという時代に、僕が困って行くようなことがあったら、其時は君、宜敷頼みますぜ。」「へへへ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなか出世です」 私は苦笑した。「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのお噂をしています」「おけい?」すぐには呑みこめなかった。・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・きっと私を、いま少し出世させてやろうと思って、私の様子を見に来てくれたのにちがいないと、その来客の厚志が、よくわかっているだけに、なおさら、自身のぶざまが、やり切れない。お客が帰って、私は机の前に呆然と坐って、暮れかけている武蔵野の畑を眺め・・・ 太宰治 「鴎」
・・・彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫