・・・しまいには、畳の縁の交叉した角や、天井の四隅までが、丁度刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。 修理は、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・しかし、妻は、弱い女の身として、世間の疑の的になると云う事が、如何にも切ないのでございましょう。あるいはまた、ドッペルゲンゲルと云う現象が、その疑を解くためには余りに異常すぎたせいもあるのに相違ございません。妻は私の枕もとで、いつまでも啜り・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上って来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返って、・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・あてこともねえ、どうじゃ、切ないかい、どこぞ痛みはせぬか、お肚は苦しゅうないか。」と自分の胸を頑固な握拳でこツこツと叩いて見せる。 ト可愛らしく、口を結んだまま、ようようこの時頭を振った。「は、は、痛かあない、宜いな、嬉しいな、可し・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ あの容色で家の仇名にさえなった娘を、親身を突放したと思えば薄情でございますが、切ない中を当節柄、かえってお堅い潔白なことではございませんかね、旦那様。 漢方の先生だけに仕込んだ行儀もございます。ちょうど可い口があって住込みましたの・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」 と込上げ揉立て、真赤になった、七顛八倒の息継に、つぎ冷しの茶を取って、がぶりと遣ると、「わッ。」と咽せて、灰吹を掴ん・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・静と立ってると、天窓がふらふら、おしつけられるような、しめつけられるような、犇々と重いものでおされるような、切ない、堪らない気がして、もはや! 横に倒れようかと思った。 処へ、荷車が一台、前方から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被をし・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・打ああ、切ない、苦しい。苦しい、切ない。人形使 ううむ堪らねえ、苦しいが、可い塩梅だ。堪らねえ、いい気味だ。画家 (土手を伝わって窪地に下りる。騒がず、しかし急ぎ寄り、遮り止貴女、――奥さん。夫人 あら、先生。(瞳をくとともに、・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 六「その時はどんなに可恐しゅうございましょう、苦しいの、切ないの、一層殺して欲しいの、とお雪さんが呻きまして、ひいひい泣くんでございますもの、そしてね貴方、誰かを掴えて話でもするように、何だい誰だ、などと言うで・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・せめてこの木戸でもあったらと切ない思いが胸にこみあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行している。ただ静かに滑らかで、人ひとり殺した恐ろしい水とも見えない。幼い彼は命取らるる水とも知らず、地平と等しい水ゆえ深いとも知らずに、はいる瞬間まで・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫