・・・また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外の風。 予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が掌左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。「ミリヤアド。」「ミリヤアド。」 目はあきらかにひら・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・家内ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然の大きな声に、『わたしも今それを思っていたのよ』とお絹は針の手をやめて叔父の方を見れば叔父も心配らしいまじめな顔つき。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そして花片の散り落ちるように、また漏刻の時を刻むように羯鼓の音が点々を打って行くのである。 ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は素人の私には分らない。しかしそこには確かに楽の中から流れ出て地と空と人の胸とに滲透するある雰・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・二つの時計――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚の上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――この二つの時計の秒を刻む音と、足もとのほうから聞こえて来る付添看護婦の静かな寝息のほかには何もない。ただあ・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・蔦鎖す古き窓より洩るる梭の音の、絶間なき振子の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・棺の後を追って足早に刻む下駄の音のみが雨に響く。「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と余は胸の中で繰り返して見た。昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、昨日病気に罹って今日死ぬ者は固よりあるべきはずである。二十六年も娑婆の気を吸ったものは病気・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そこでこの心持ちが作の上にはどう現れているかと云うと、実に骨に彫り、肉を刻むという有様で、非常な苦労で殆ど油汗をしぼる。が、油汗を搾るのは責めては自分の罪を軽め度いという考えからで、羊頭を掲げて狗肉を売る所なら、まア、豚の肉ぐらいにして、人・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・(けわしくも刻むこころの峯々斯う云う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。 すぐ向うに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の子供が幹を間にして立っているのでした。諒安はよくそっち・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・かな 日やけ色の手脚をまるめて 名もなつかしい おじいさん椅子は おだやかに 大きく黄ばんだ朽葉色 気持の和むなきじゃくりと ミシンの音は夢にとけ入り 時計はチクタクを刻む となりの子供は みんな・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・名匠が仏体を刻む鑿の音、其処にあって私は仕事がして見たいと思います。私はあの里見氏の芸術からその気持が享容れられます。 私は創作は議論ではない力だと思います。それはお互いに争った両人の画家が、最後に無言で両人の作品を並べて其力を批判した・・・ 宮本百合子 「女流作家として私は何を求むるか」
出典:青空文庫