・・・と書いた事が、何か不吉な前兆のように、頭にこびりついて離れなかった。「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・若し少しでもその前に前兆らしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。何でも彼岸前のある暮れがた、「ふ」の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台に話していました。そこへふと通りかかったのは「青ペン」の女の一人です。その女は二人の顔を見・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ そう云えば、細川家には、この凶変の起る前兆が、後になって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川伊佐羅子の上屋敷が、火事で焼けた。これは、邸内に妙見大菩薩があって、その神前の水吹石と云う石が、火災のある毎に水を吹くので・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・あるいは事によるとこれも、あの前兆だったかも知れません。私は突然この恐しさに襲われたので、大時計を見た眼を何気なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停留場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦じそうに立・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・という言葉をおぼえて来て、そのころ、しきりにそれを繰り返していたそうだが、妻は、それが今回のことの前兆であったと、御幣をかついでいた。それももっともだというのは、僕が東京を出発する以前に、ようやく出版が出来た「デカダン論」のために、僕の生活・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・三十歳そこそこの若さでだ、阿修羅みたいにそんなに仕事が出来るのはよくない前兆だぞと、今はもう冗談にからかってもギクリともしない。不死身の覚悟が出来ているかのようである。死んだという噂を立てられてから六年になるが、六年の歳月が一人の人間をこん・・・ 織田作之助 「道」
・・・今の住居の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂があって、それが一昨年も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。「敗北とは何ですか。」「悪に媚笑する事です。」「悪とは何ですか。」「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」 議論とは、往々にして・・・ 太宰治 「かすかな声」
・・・狂気の前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定してもらって外へ出た。たちまち烈風。スプリングの裾がぱっとめくりあげられ、一握の小砂利が頬めがけて叩きつけられぱちぱち爆ぜた。ぐっと眼をつぶ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・けれども、まさか、これが、どろぼう入来の前兆であるとは気がつかなかった。私はこれを、自身のありあまる教養の故であろうと、お恥かしい、そう思っていたのである。思い出す。チエホフの芝居にも、ひとりの気のきかない好人物が、「あわや、というまに熊は・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫