・・・ そして、すらすらと石橋を前方へ渡った。それから、森を通る、姿は翠に青ずむまで、静に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ重った不意の出来事に、心の騒いだのは争われない。……涼傘を置忘れたもの。…… 森を高く抜けると、三国見霽しの一面の広場・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 処へ、荷車が一台、前方から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被をした百姓である。 これに夢が覚めたようになって、少し元気がつく。 曳いて来たは空車で、青菜も、藁も乗って居はしなかったが、何故か、雪の下の朝市に行くのであろうと見・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・「まだお前方は働きようが足りないのだ。もっと働いて金を溜てお前方も資本家になるがいゝ」 窓の外で、軟かに、風にふるえつゝ新緑の木々の姿を見て、私は、いろ/\の考えに耽っていました。こゝに書いたゞけでは、もとより其の複雑の気持を現わす・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・ 石の上に腰をおろして、前方を見ていると、ちょうど、日があちらの山脈の間に入りかかっています。金色にまぶしくふちどられた雲の一団が、その前を走っていました。先頭に旗を立て、馬にまたがった武士は、剣を高く上げ、あとから、あとから軍勢はつづ・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・ 光治は心のうちで懐かしい少年だと思いながら、静かに少年の背後に立って、少年の描いている絵に目を落としますと、それは前方の木立を写生しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと描けていて、その木の色といい、土の色といい、空の感・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・じっと前方を見凝めたまま相変らず固い口調で、「いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通ってきた二つ井戸よりもなお明るいあんな世界がこの世にあったのかと、もうまるで狐につままれたような想いがし、もし浜子が連れて行ってくれなければ、隙をみてかけだして行って、あの光の洪水の中へ飛びこもうと思い・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシード・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・二つの溪の間へ楔子のように立っている山と、前方を屏風のように塞いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣のような山褶が交互に重なっていた。そしてその涯には一本の巨大な枯木をその巓に持っている、そしてそのためにことさら感情を高め・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
出典:青空文庫