・・・まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返していた。 一行四人は兵衛の妹壻が浅野家の家中にある事を知って・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・が、彼女の前髪や薄い黄色の夏衣裳の川風に波を打っているのは遠目にも綺麗に違いなかった。「見えたか?」「うん、睫毛まで見える。しかしあんまり美人じゃないな。」 僕は何か得意らしい譚ともう一度顔を向い合せた。「あの女がどうかした・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった。彼女は妙な顔をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹こうとする顔に違いなかった。が、誰も言い合せたように全然彼女には冷淡だった。僕はK君・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・ まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖と、涙と、笑とは、ただその深く差俯向いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢に包まれて、簪の穂に顕るる。……窈窕たるかな風采、花嫁を・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・我が肩するる婦の髪に、櫛もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも婀娜に斜にささって、とか言う簪の風情そのままなのを、不思議に見た。茸を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。「・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 物もいわないで、あの女が前髪のこわれた額際まで、天鵞絨の襟を引かぶったきり、ふるえて泣いてるのでございましょう。 ようよう口を利かせますまでには、大概骨が折れた事じゃアありません。 口説いたり、すかしたり、怨んでみたり、叱った・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・その色の浅黒い後妻の眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐――悉しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小さいハンケチを揮り揮り香水の香いを四辺に薫じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様ら・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦も最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたった六七年である。南朝五十七年も其前後の準備や終結を除いた正味は二・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 従って、髪も兵古帯にふさわしくお下げにして、前髪を垂らしているせいか、ふと下町娘のようであり、またエキゾチックなやるせなさもある。 昔はやった「宵闇せまれば悩みは果てなし……」という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひど・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫