・・・一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡り、板塀は崩れ、青いペンキが剥げちょろけになったその建物のなかで、人びとは古障子のようにひっそりと暮していた。そして佐伯はいわばその古障子の破れ穴とでもいうべきうらぶれた日日を送っていたのである。・・・ 織田作之助 「道」
・・・毛布をかむって寝台からペンキの剥げたきたない天井を見た。 戦死者があると、いつも、もと坊主だった一人の兵卒が誦経をした。その兵卒は林の中へもやって行った。 林の中に嗄れた誦経の声がひゞき渡ると、薪は点火せられ、戦死者は、煙に化して行・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・皮の剥げたほど古い欅の若葉を通して、浅間一帯の大きな傾斜が五月の空に横わるのも見えた。矢場の後にある桑畠の方からはサクを切る百姓の鍬の音も聞えて来た。そこは灌木の薮の多い谷を隔てて、大尉の住居にも近い。 学士は一番弱い弓をひいたが、熱心・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・観覧車も今は闃として鉄骨のペンキも剥げて赤あかさびが吹き、土台のたたきは破れこぼちてコンクリートの砂利が喰み出している。殺風景と云うよりはただ何となくそぞろに荒れ果てた景色である。 平一は今年の夏妹夫婦と姪とで夜の会場へ遊びに来た事があ・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・向側には途方もない大きな汽船の剥げ汚れた船腹が横づけになっている。傘のように開いた荷揚器械が間断なく働いて大きな函のようなものを吊り揚げ吊り降ろしている。 ドイツの兵隊が大勢急がしそうにそこらをあちこちしている。 不意に不思議な怪物・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合の座敷を聯想させるような、上等ならば紫檀、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥げてはいれど、やや大形の猫足の塗膳であ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・それが洗い晒されて昔を忍ぶ染色は見るかげなく剥げていた。青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・どうせまた水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構わないでおいてもすぐ壊れることが明らかでしたから。 次の朝早く私は実習を掲示する黒板にこう書いておきました。 八月八日農場実習 ・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・その剥げた薄い膳には干した川魚を煮た椀と幾片かの酸えた塩漬けの胡瓜を載せていた。二人はかわるがわる黙って茶椀を替えた。膳が下げられて疲れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云った。(うん。あの女の人は孫娘らしい。亭主はきっと礦山ひる・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ 向うに小さな赤剥げの丘がありました。狐はその下の円い穴にはいろうとしてくるっと一つまわりました。それから首を低くしていきなり中へ飛び込もうとして後あしをちらっとあげたときもう土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
出典:青空文庫