・・・しかしこの標本室へ来れば、剥製の蛇や蜥蝪のほかに誰一人彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。…… 落ち合う時間は二時である。腕時計の針もいつのまにかちょうど二時を示していた・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ 一三 剥製の雉 僕の家へ来る人々の中に「お市さん」という人があった。これは代地かどこかにいた柳派の「五りん」のお上さんだった。僕はこの「お市さん」にいろいろの画本や玩具などを貰った。その中でも僕を喜ばせたのは大きい・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ちょうど、それは鋳物で造られた鳥か、また、剥製のように見られたのでありました。 男は、夜おそくまで、障子を開け放して、ランプの下で仕事をすることもありました。夏になると、いつも障子が開けてありましたから、外を歩く人は、この室の一部を見上・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・その飾り窓には、野鴨の剥製やら、鹿の角やら、いたちの毛皮などあり、私は遠くから見ていたのであるが、はじめは何の店やら判断がつかなかった。そのうちに、あいつはすっと店の中へ入ってしまったので、私も安心して、その店に近づいて見ることが出来たのだ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ。剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それで傷が癒りゃ、医者なんぞ食い上げだ! いいか、覚えてろ! 万寿丸は室浜の航海だ。月に三回はいやでも浜に入って来らあ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
博物局十六等官キュステ誌 私の町の博物館の、大きなガラスの戸棚には、剥製ですが、四疋の蜂雀がいます。 生きてたときはミィミィとなき蝶のように花の蜜をたべるあの小さなかあいらしい蜂雀です。わたくしはその四疋の中・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・卓の上には地球儀がおいてありましたしうしろのガラス戸棚には鶏の骨格やそれからいろいろのわなの標本、剥製の狼や、さまざまの鉄砲の上手に泥でこしらえた模型、猟師のかぶるみの帽子、鳥打帽から何から何まですべて狐の初等教育に必要なくらいのものはみん・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしていましたから、少し気を直すつもりで酒石酸をつめたい水に入れて呑んでいましたら、ずうっと遠くですきとおった口笛が聞えました。その調子は・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・一太は決して歩いて行ってそれに触るようなことはしなかったが、浅草のおばさんちにあったような鳥の剥製でもあるといいのに! 壁には髭もじゃ爺の写真がかかっているだけだ。 先刻から、一太の母と主人とは大体こんな会話をしていた。「私もそうお・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・同じ仲間の剥製を、何と思って見るだろう、それが知りたかったのである。 畳の上に手をついて見ていると、なかなか気が附かない。止り木の上に並び、暖い日を浴びている彼等は、飛びもさわぎもせずに、微かに嘴などを動かしている。 やがて、雌のじ・・・ 宮本百合子 「小鳥」
出典:青空文庫