・・・彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のな・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・大海蒼溟に館を造る、跋難佗竜王、娑伽羅竜王、摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱の微輩。馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ ある日寺田屋へ、結いたての細銀杏から伽羅油の匂いをプンプンさせた色白の男がやってきて、登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっているゆえ、開けてみてはならんぞ。脅すような口を利いて帰って行った。五十吉といい今は西洞院の紙問屋の番・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ば往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は卒業証書授与式以来の胸躍らせもしも伽羅の香の間から扇を挙げて麾かるることも・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・例えば伽羅くさき人の仮寝や朧月女倶して内裏拝まん朧月薬盗む女やはある朧月河内路や東風吹き送る巫が袖片町にさらさ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木を買うか末木を買うかという口論から、本木説を固守した彌五右衛門は相役横田から仕かけられてその男を只一打に討ち果した。彌五右衛門は「某は・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・町へ芝居を見に行く前に、村の者はこの婆さんのところへ行って概説だけをきいて来るのであるけれ共、時には伽羅千代萩と尾上岩藤がいっしょになり、お岩様とお柳とが混線したりする。けれ共この村でのまあ芝居通である。 婆さんはいろいろ祖母と話をした・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・幸なる事には異なる伽羅の大木渡来いたしおり候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合い、次第に値段をつけ上げ候。 その時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・幸なる事には異なる伽羅の大木渡来致しおり候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け、互にせり合い、次第に値段をつけ上げ候。 その時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫