・・・僕は番茶の渋のついた五郎八茶碗を手にしたまま、勝手口の外を塞いだ煉瓦塀の苔を眺めていた。同時にまたちぐはぐな彼等の話にある寂しさを感じていた。「兄さんはどんな人?」「どんな人って……やっぱり本を読むのが好きなんですよ。」「どんな・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・その庭の片端の僕の方に寄ってるところは、勝手口のあるので、他の方から低い竹垣をもって仕切られていて、そこにある井戸――それも僕の座敷から見える――は、僕の家の人々もつかわせてもらうことになっている。 隣りの家族と言っては、主人夫婦に子供・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もう、家の勝手口に糞をしなくて、それはいいあんばいだ。」と、独り言をしてゆきすぎました。また弱虫の子供の母親は、ボンがいなくなったと聞いて、家の外に出て、いい気味だといわぬばかりに笑っていました。 三郎は悔しくてしかたがありませんで・・・ 小川未明 「少年の日の悲哀」
・・・ 先ずこのがやがやが一頻止むとお徳は急に何か思い出したように起て勝手口を出たが暫時して返って来て、妙に真面目な顔をして眼を円くして、「まア驚いた!」と低い声で言って、人々の顔をきょろきょろ見廻わした。人々も何事が起ったかとお徳の顔を・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔は、凍った空気をかみ殺すように・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・丁度学士の奥さんは年長のお嬢さんを相手にして開けひろげた勝手口で働いていたが、その時庭を廻って来た。 奥さんは性急な、しかし良家に育った人らしい調子で、「宅じゃこの通り朝顔狂ですから、小諸へ来るが早いか直ぐに庭中朝顔鉢にしちまいまし・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・奥さんの前ですけれども、いや、もう何も包みかくし無く洗いざらい申し上げましょう、旦那は、或る年増女に連れられて店の勝手口からこっそりはいってまいりましたのです。もっとも、もうその頃は、私どもの店も、毎日おもての戸は閉めっきりで、その頃のはや・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 庭で遊んでいた七つの長女が、お勝手口のバケツで足を洗いながら、無心に私にたずねます。この子は、母よりも父のほうをよけいに慕っていて、毎晩六畳に父と蒲団を並べ、一つ蚊帳に寝ているのです。「お寺へ。」 口から出まかせに、いい加減の・・・ 太宰治 「おさん」
・・・果して、勝手口から、あの少女でもない、色のあさぐろい、日本髪を結った痩せがたの見知らぬ女のひとがこちらをこっそり覗いているのを、ちらと見てしまった。「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい。」「お帰りですか? 薄茶を、もひとつ。」・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・忘れた様子で、但馬のばかが、また来やがった、等とお友達におっしゃって、但馬さんも、それを、いつのまにか、ご存じになったようで、ご自分から、但馬のばかが、また来ましたよ、なんて言って笑いながら、のこのこ勝手口から、おあがりになります。もう、あ・・・ 太宰治 「きりぎりす」
出典:青空文庫