・・・ほの暗い勝手口に芹川さんの兄さんが、にこにこ笑いながら立っていました。芹川さんの兄さんとは、女学校に通っていたときには、毎朝毎夕挨拶を交して、兄さんは、いつでも、お店で、小僧さんたちと一緒に、くるくると小まめに立ち働いていました。女学校を出・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・れは秋のなかば、月の非常にいい夜でございましたが、私は十二時すぎに店をしまいまして、それから大いそぎで築地の或る心易くしている料理屋へ風呂をもらいに行きまして、かえりには、屋台でおそばを食べ、家へ来て勝手口をあけようとしても、もう内桟をおろ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・はっと思うまもなく、その女は、医師の家の勝手口にはいった。やんぬる哉。それが、すなわち、細君御帰宅。 太宰治 「やんぬる哉」
・・・自分が四歳の時に名古屋にいたころのかすかな思い出の中には、どこか勝手口のような所にあった高い板縁へよじ上ろうよじ上ろうとしてあせったことが一つの重大な事項になっているのである。これに似た記憶は多くの人に共通なものであろう。この本能を守り立て・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・今年の春、勝手口にあった藤を移植して桜にからませた、その葉が大変に茂っていたので、これに当たる風の力が過大になって、細い樹幹の弾力では持ち切れなくなったものと思われる。 これで見ても樹木などの枝葉の量と樹幹の大きさとが、いかによく釣合が・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼で睨まれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・左の方はひろい芝生つづきの庭が見え、右の方は茄子とか、胡瓜を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・そして、ついぞ父親の行かれた事のない勝手口の方に、父の太い皺枯れた声がする。田崎が何か頻りに饒舌り立てて居る。毎朝近所から通って来る車夫喜助の声もする。私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手・・・ 永井荷風 「狐」
・・・女が肩肌抜ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板の上で行水を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『阿菊さん』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・うなお召の半纏、お召の前掛、しどけなく引掛に結んだ昼夜帯、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰めしめ、警察官をしては坐に嫌疑の眼を鋭くさせるような国貞振りの年増盛りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七輪、水・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫