・・・「山のうえから、青い藤蔓とってきた …西風ゴスケに北風カスケ… 崖のうえから、赤い藤蔓とってきた …西風ゴスケに北風カスケ… 森のなかから、白い藤蔓とってきた …西風ゴスケに北風カスケ… 洞のなかから、黒い・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・ それから今度は北風又三郎が、今年はじめて笛のやうに青ぞらを叫んで過ぎた時、丘のふもとのやまならしの木はせはしくひらめき、果物畑の梨の実は落ちましたが、此のたけ高い三本のダァリヤは、ほんのわづか、きらびやかなわらひを揚げただけでした。・・・ 宮沢賢治 「まなづるとダァリヤ」
・・・ すると向うで、「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」と細いいい声がしました。 狐の子の紺三郎がいかにもばかにしたように、口を尖らして云いました。「あれは鹿の子です。あいつは臆病ですからとてもこっちへ来そうにありません。・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・ 冬にはつきものの北風がその夜も相当に吹いていた。なるほど、勇吉の家が、表側ぱっと異様に明るく、煙もにおう。気負って駆けつけ、「水だ、水だ、皆手を貸せ」と叫んだ勘助は、おやと尋常でないその場の光景に気をのまれた。勇吉の家では、今・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・少し空が曇り、北風でも吹くと、元気な文鳥以外のものは、皆声も立てず、止り木の上にじっとかたまって、時雨れる障子のかげを見ているのである。 人間でも気が滅入り、火鉢の火でもほげたく思うような時、袖をかき合わせて籠をのぞくと、一層物淋しい心・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・冬の荒い北風、幾度かその上に転んだ深い雪、風の雨戸に鳴る音さえ、陰気ではあるが私にとって決して厭わしい思い出ではない。 春が来て、私の家の小さな庭に香のある花が咲き、夕暮の残光が長く空を照らす頃になると、私のその郷愁は愈募って来る。・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
・・・枝たわめつゝ ゆるくまはれり小春日の村白壁の山家に桃の影浮きて 胡蝶は舞はでそよ風の吹くなつかしき祖母の住居にありながら まだ旅心失せぬ悲しさなめげなる北風に裾吹かせつゝ 野路をあゆめ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 二十六日桑野にて、 天気は晴れて、のびかかった麦が、美くしい列になって見える、けれども北風が激しいので、一吹松林をそよがせながら、風が吹いて来ると、向うの山に積った粉雪が運ばれて来て、キラキラと光りながら、彼女の頭に降りかかっ・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・桶や袋や箱を重く積込んだ渡船は帆をかけ、舵手席に、平静で、冷やかな眼をしたパンコフが坐り、舷には灰色の脆い早春の氷塊が濁った水に漂いながらぶつかる。北風が岸に波によせて戯れ、太陽が氷塊の青く硝子のような脇腹に当って明るく白い束のように反射し・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱とがある。 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫