・・・「天上天下唯我独尊」と獅子吼した事などは信じていない。その代りに、「深く御柔軟、深く御哀憐、勝れて甘くまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身ごもった事を信じている。「十字架に懸り死し給い、石の御棺に納められ給い、」大地の底に埋められたぜ・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架を拝するようになった。この女をここへ遣わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。「お子さんはここへ来られますか。」「それはちと無理かと存じますが……」「ではそこへ案内して下さい・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクラ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・昔キリストというおかたは人間のためには十字架の上で身を殺してさえ喜んでいらっしたのではないか。もう私は泣かぬ。さあ早くこの玉を取ってあのわかい武士にやってくれ、さ、早く」 とおせきになります。燕はなおも心を定めかねて思いわずらっています・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・わたくしは自分の致した事を、一人で神様の前へ持って参ろうと存じます。名誉ある人妻として持って参ろうと存じます。わたくしは十字架に釘付けにせられたように、自分の恋愛に釘付けにせられて、数多の創から血を流しています。こんな恋愛がこの世界で、この・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・その友達というのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、僕の手相を見たとき、君の手にはソロモンの十字架がある。それは一生家を持てない手相だと言ったんです。僕は別に手相などを信じないんだが、そのときはそう言われたことでぎくっとしました・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・乃木夫人は戦場に、マリアは十字架へとわが子を行かしめたのも、われわれはこれを母性愛に対する義務の要求と見ずに、道と法とに高められ、照らされたる母性愛と見たい。それだけの負荷をあえて人間の精神、母なるものの霊性に課したいのである。永遠の母とは・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以てそれを見ました・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃が金で書いてある顔回の瓢、耶蘇の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。・・・ 幸田露伴 「骨董」
出典:青空文庫