・・・ 十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向うの橋へ行く方の雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑い声も口笛も、・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・つめたがいにやられたのだな朝からこんないい標本がとれるならひるすぎは十字狐だってとれるにちがいないと私は思いながらそれを拾って雑嚢に入れたのでした。そしたら俄かに波の音が強くなってそれは斯う云ったように聞こえました。「貝殻なんぞ何にするんだ・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・さむらいはふところから白いたすきを取り出して、たちまち十字にたすきをかけ、ごわりと袴のもも立ちを取り、とんとんとんと土手の方へ走りましたが、ちょっとかがんで土手のかげから、千両ばこを一つ持って参りました。 ははあ、こいつはきっと泥棒だ、・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 今日あるものは、満目の白い十字の墓標である。幾万をもって数えられるかと思う白い墓標は、その土の下に埋った若者たちがまだ兵卒の服を着て銃を肩に笑ったり、苦しんだりしていたとき、号令に従って整列したように、白い不動の低い林となって列から列・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・そして、十字架を握った冷っこい手を子供の唇へ押しつけて、こわい声でいった。 ――お前、この世で一番偉い方は誰だか知っているか。 ――神さまです。 ――その次には? 子供は坊主の赤い鼻を見上げて機械的に答える。 ――ツァー・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ 十字に綾どられた水色襷が、どんなに美くしく、心を捕えたのか。私と同級の一人の友達は、いつの間にか、それと寸分違わないもう一つの水色襷を作った。そして、何気なく体操や何かの時、ふっさり結んで肩につける。 ところが或る日、担任の先生か・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
・・・頸から金の十字架がかかってまぼしい様にチラチラと光る。厚い髪を左右にピッタリとかきつけて心持下を向く法王の後からも、先に進む人と同じ様子に続いて沢山の宮人がついて行く。おだやかに静かな行列は広場の中央をよぎって順々に見えなくなる。・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・猫背の背中を真直にし、頭をふりあげ、愛想よくカザンの聖母の丸い顔を眺めながら、彼女は大きく念を入れて十字を切り、熱心に囁くのであった。「いと栄えある聖母さま、今日もあなたの恵みを与え給え。おん母さま」 地べたにつく程低くお辞儀をする・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫