・・・――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗いて、千尋の淵の水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢の白鷺の影さえ宿る、櫓と、窓と、楼と、美しい住家を視た。「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」 縋る・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・これを聴いた私は、千尋の絶壁からつき落された心持でした。もうすっかり覚悟しなければ成らなくなりました。ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・翁は布団翻のけ、つと起ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、目眩みてそのまま布団の上に倒れつ、千尋の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。 その日源叔父は布団被りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹き・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく過し居れる人と、形はやや相似たれども、その心境の深浅の差は、まさに千尋なり。十四、わが身にとりて忌むもの多し。犬、蛇、毛虫、このごろのまた蠅のうるさき事よ。ほら吹き、最もきらい也。十・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・また山を越えると、踏まえた石が一つ揺げば、千尋の谷底に落ちるような、あぶない岨道もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行か・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫