・・・ 爾来更に何年かを閲した今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・それからあたかも卒然と天上の黙示でも下ったように、「これはこうでしょう」と呼びかけながら、一気にその個所を解決した。保吉はこの芝居のために、――この語学的天才よりもむしろ偽善者たる教えぶりのために、どのくらい粟野さんを尊敬したであろう。……・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ こう云う言と共に肩を叩かれた私は、あたかも何かが心から振い落されたような気もちがして、卒然と後をふり返った。「どうです、これは。」 相手は無頓着にこう云いながら、剃刀を当てたばかりの顋で、沼地の画をさし示した。流行の茶の背広を・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・よしまた覚えているとしても――自分は卒然として、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局名乗なぞはあげない方が、遥に先生を尊敬する所以だと思い直した。そこで珈琲が尽きたのを機会にして、短くなった葉巻を捨てながら、・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・そうしてその人たちの態度には、ちょうど私自身が口語詩の試みに対して持った心持に類似点があるのを発見した時、卒然として私は自分自身の卑怯に烈しい反感を感じた。この反感の反感から、私は、まだ未成品であったためにいろいろの批議を免れなかった口語詩・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ かかる折から卒然崛起して新文学の大旆を建てたは文学士春廼舎朧であった。世間は既に政治小説に目覚めて、欧米文学の絢爛荘重なるを教えられて憧憬れていた時であったから、彼岸の風を満帆に姙ませつつこの新らしい潮流に進水した春廼舎の『書生気質』・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・この時十蔵卒然独り内に入りたり。われらみな十蔵二郎を救うことぞと思い、十蔵早くせよと叫び、戸口をきっと見て二人の姿の飛び出ずるをまちぬ。瓦降り壁落つ。われらみな樫の老木を楯にしてその陰にうずくまりぬ。四辺の家々より起こる叫び声、泣き声、遠か・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠め・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・』『ナニ別に、ただ少しばかし……』『今夜宅で浪花節をやらすはずだから幸ちゃんもおいでなさいな、そらいつかの梅竜』お神さんは卒然言葉をはさんだ。『そうですか、来ましょう、それじゃあまた晩に』と言って幸吉は帰ってしまった。『幸ち・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・と河田翁は卒然聞いた。石井翁は帯の間から銀時計の大きいのを出して見て、「三時半です」「イヤそれじゃもう行かなきゃならん。」と河田翁は口早に言って、急に声を潜め、あたりをきょろきょろ見回しながら、「実はわたし、このごろある婦人会の・・・ 国木田独歩 「二老人」
出典:青空文庫