・・・いやいやながら箸を取って二口三口食うや、卒然、僕は思った、ああこの飯はこの有為なる、勤勉なる、独立自活してみずから教育しつつある少年が、労働して儲けえた金で、心ばかりの馳走をしてくれる好意だ、それを何ぞやまずそうに食らうとは! 桂はここで三・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・名士、というわけのことになるのかも知れぬ、と思えば卒然、狼狽せずには居られなかったのである。沢山の汚名を持つ私を、たちの悪い、いたずら心から、わざと鄭重に名士扱いにして、そうして、蔭で舌を出して互に目まぜ袖引き、くすくす笑っている者たちが、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・富貴も驕奢に流れず貧賤も鄙陋に陥らず、おのおの其分に応じて楽しみを尽すを以て極意となすが如きものなれば、この聖戦下に於いても最適の趣味ならんかと思量致し、近来いささかこの道に就きて修練仕り申候ところ、卒然としてその奥義を察知するにいたり、こ・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・あるものは人間交渉の際卒然として起る際どき真味がなければ文学でないと云う。あるものは平淡なる写生文に事件の発展がないのを見て文学でないと云う。しかして評家が従来の読書及び先輩の薫陶、もしくは自己の狭隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・伴三が本郷の本屋で、高等学校の生徒が自分の本をしばらくひらいて立読みし、やがて卒然感興を失った表情でそれを乱暴に本棚へ戻すのを目撃していて受けた苦痛の感情は、「強者連盟」全篇の中でも、亮子のいわゆる心をどうかしそうにまで肉薄した描写である。・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
出典:青空文庫