・・・それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、『人の若衆を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・中には、細くきざんだ紙に南無阿弥陀仏と書いたのが、雪のようにふりまいてある。先生の顔は、半ば頬をその紙の中にうずめながら、静かに眼をつぶっていた。ちょうど蝋ででもつくった、面型のような感じである。輪廓は、生前と少しもちがわない。が、どこかよ・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ 二人は顔を見合せたが、涙ながらに手を合せて、捧げ持って、「南無阿弥陀仏、」「南無阿弥陀仏。」 折から洲崎のどの楼ぞ、二階よりか三階よりか、海へ颯と打込む太鼓。 浴衣は静に流れたのである。 菊枝は活々とした女になった・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・「南無阿弥陀仏。」 と折から唸るように老人が唱えると、婆娘は押冠せて、「南無阿弥陀仏。」と生若い声を出す。「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣らず、中腰でそわそわ。「お忙しいかね。」と織次は構・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・りませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、迷イ児の迷イ児の三太やあいと、鉦を叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏……南無阿弥陀……南無阿弥陀・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・民子はあなたが情の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 僕は懐にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。この時ふっと気がついた。民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いや直ぐ掘ってきて植えよう。こ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ナア、一体どういうのだろう。なんにしても岡釣の人には違いねえな。」 「ええ、そうです。どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川、真鍋河岸や万年のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上の方の・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・互に手を取って南無阿弥陀仏と死ぬばかり。もし駕籠かきの悪者に出逢ったら、庚申塚の藪かげに思うさま弄ばれた揚句、生命あらばまた遠国へ売り飛ばされるにきまっている。追手に捕まって元の曲輪へ送り戻されれば、煙管の折檻に、またしても毎夜の憂きつとめ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「南無阿弥陀仏」と、丈夫な誰かが云ったようだった。「たすけ……」と、落ちてゆく病人が云ったようだった。そんな気がした。 水夫は未だ確りしていた。「俺はいやだ!」と彼は叫んだ。 彼は、吐瀉しながら、転げまわりながら、顔中を・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・半紙の嚢を二通りに拵えてそれにおが屑をつめ、其嚢の上には南無阿弥陀仏などと書く。これはつめ処によって平たい嚢と長い嚢と各必要がある。それで貌の処だけは幾らか斟酌して隙を多く拵えるにした所で、兎に角頭も動かぬようにつめてしまう。つまり死体は土・・・ 正岡子規 「死後」
出典:青空文庫