・・・二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤と拝せられましたが、その頃が峠で、それからは謂わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋、尼御台さまは御台所さ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・母の危篤に駈けつけるときには、こんな思いであろうか。私は、魯鈍だ。私は、愚昧だ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけが・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・だんだん親しくなり、そのうちに父上の危篤の知らせがあって、彼はその故郷からの電報を手に持って私の部屋へはいるなり、わあんと、叱られた子供のような甘えた泣き声を挙げた。私は、いろいろなぐさめて、すぐに出発させた。そんな事があってから、私たちは・・・ 太宰治 「リイズ」
・・・話の様子で察してみると、誰かこの老婆の身近い人が、川崎辺の病院にでもはいっていて、それが危篤にでも迫っているらしい。間に合うかどうかを気にしているのを、男がいろいろに力をつけて慰めてでもいるらしかった。こういう老婆を見ると、いかにも弱々しく・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 危篤な病人の枕もとへはおおぜいの見舞い人が詰めかける。病人の頭の上へ逆さまに汗臭い油ぎった顔をさし出して、むつかしい挨拶をしむつかしい質問をしかける。いっそう親切なのになると瀕死の人にいやがらせを言う。そうして病人は臨終の間ぎわまで隣・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・やがて虚子が京都から来る、叔父が国から来る、危篤の電報に接して母と碧梧桐とが東京から来る、という騒ぎになった。これが自分の病気のそもそもの発端である。〔『ホトトギス』第三巻第三号 明治32・12・10〕・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 一九三四年一月十五日にわたしも検挙され、六月十三日、母の危篤によって家へ帰された。母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。 その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・一昨年の一月から六月十三日に母の危篤により帰る迄の間に私は猛烈な心臓脚気にかかっていて、胸まで痺れ、氷嚢を当て、坐っていた。 私の心臓が慢性的に弱ったのは、この第二のことからです。その時は、オリザニンの注射その他の治療で直そうとし、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ ほんとうにこの一週間程の真剣さと云ったら彼女自身でも驚く程でしたところへ昨日仲働きへ電報で姉が危篤だと云うのです。 東京から五六十里北の者だったのでしたが、何にしろ死にそうだと云うのだからと云って不自由を知って帰してやりましたので・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・一月以来駒込署、小松川署、杉並署、淀橋署と移されていたが、六月十三日、母危篤のため急に帰された。肺壊疽をわずらって順天堂病院に入院していた母は、私が病院にかけつけて十五分ののちに死去した。私は半年の留置場生活で健康を害して、心臓衰弱に苦しん・・・ 宮本百合子 「年譜」
出典:青空文庫