・・・然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓の上へのぼりながら、途々「縁」に就て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。 そして構造の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して此方へ来る女が・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・「無益ですよ、却って気を悪くなさるばかりですよ」「それは多少か気を悪くなさるだろうけれど、言わないで置けばこの後どんなことに成りゆくかも知れないよ」「そうですねえ……然し兵隊さんとどうとかいうようなことは被仰んほうが可う御座いま・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ある時代には人性のある点は却って閑却され、それがさらに後にいたって、復活してくることは珍しくない。そしてその復活は元のままのくりかえしではなく必ず新しく止揚されて、現段階に再登場しているのだ。その二千五百年間の人間の倫理思想の発展と推移とを・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・だが、そうすれば、今、却って、自分が損をするばかりだ。彼はそう考えた。強いて押し黙っていた。 一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまな・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・子供の折は犬が非常に嫌いでしたから、怖々に遠くの方を通ると、狗は却って其様子を怪んで、ややもすると吠えつく。余り早いので人通は少し、これには実に弱りました。或朝などは怖々ながらも、また今にも吠えられるか噛みつかれるかと思って、其犬の方ばかり・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・して病死しても、正岡子規君や清沢満之君の如く、餓死しても伯夷や杜少陵の如く、凍死しても深艸少将の如く、溺死しても佐久間艇長の如く、焚死しても快川国師の如く、震死しても藤田東湖の如くならば、不自然の死も却って感嘆すべきではない歟、或は道の為め・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・成程過ぎ去った歴史上には種々優れた人もあるが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、却って教えられた事は多いのである。 北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙草屋の二階(北村君の阿母へ上って、残して置いて行ったものを調べた事があった。そ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・父親のバニカンタは、却って他の娘達より深くスバーを愛しましたが、母親は、自分の体についた汚点として、厭な気持で彼女を見るのでした。 例え、スバーは物こそ云えないでも、其に代る、睫毛の長い、大きな黒い二つの眼は持っていました。又、彼女の唇・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・そこで何か随筆を書くよう学芸のものに頼んだところ大乗気で却って向うから是非書かしてくれということだ。新人の立場から、といったようなものがいい由。七、八枚。二日か三日にわけて掲載。アプトデートのテエマで書いてくれ。期日は、明後日正午まで。稿料・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、これは「分る」という言葉の意味の使い分けである事は勿論である。 アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫